第5話 色なき瞳
翌朝、南門の前。
日の出の少し前に着いた。空はまだ灰色と紺の境目で、門の向こうに広がる荒野が薄暗く霧んでいる。
リオはもう来ていた。昨日と同じ革鎧に、短剣と丸盾。それに加えて、腰のポーチに小さな石がいくつか入っているのが見えた。
石。あれは——色石だろうか。魔力を封じ込めた使い捨ての道具。エルドの教科書に載っていた。
「早いな」
「遅れるなと言われたので」
リオの隣に、もう一人いた。
小柄な青年。イレナより少し年上だ。背中に大きなリュックを背負い、腰には薬瓶がいくつもぶら下がっている。
「ミロだ。薬師。戦闘はできないが、応急処置と薬の調合ができる」
ミロはイレナに軽く手を振った。
「よろしく。君が雑用係? 若いね」
「イレナです」
リオが地図を広げた。
「今回の依頼は、灰燼地帯の外れに出没する魔獣の調査だ。討伐じゃない。種類と数を確認して、ギルドに報告する。ただし——」
リオはイレナを見た。
「外れとはいえ灰燼地帯だ。魔獣と遭遇する可能性はある。その時は俺が対処する。お前たちは逃げろ。いいな」
「了解」
「はい」
三人は南門をくぐり、荒野に踏み出した。
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自由都市の南側は、すぐに景色が変わる。
石畳の道が途切れ、乾いた土の道になる。そこからさらに進むと、土すら消えて、灰色の砂利が広がり始める。灰燼地帯の縁だ。
草が生えていない。木も枯れている。空気が乾いて、喉の奥がざらつく。
「ここから先は色が薄い」
リオが立ち止まって言った。
「色が薄いってのは、魔力が少ないってことだ。魔法の威力が落ちる。だから魔獣も弱い個体が多い——はずだが、たまに奥から強いのが流れてくる」
イレナは頷いた。「色が薄い」。魔力が色として知覚される世界の言い回し。イレナにはもともと見えないから、何も変わらない。
リオはイレナの反応を見て、少し怪訝そうな顔をした。だが何も言わず、先に進んだ。
半刻ほど歩いた。リオが周囲を警戒しながら先頭を歩き、ミロが中間で地形を記録し、イレナが最後尾で荷物を運ぶ。
特に何も起きなかった。
魔獣の痕跡——足跡、爪痕、糞——をリオが見つけて、ミロが記録する。イレナは指示された荷物を運び、時折サンプルの瓶を渡す。雑用としては順調だった。
だが、リオの態度には距離があった。
ミロには気さくに話しかける。「ミロ、水」「ミロ、この痕跡どう思う」。しかしイレナには最低限の指示しか出さない。「荷物」「瓶」「そこ持て」。
名前すら呼ばない。
何かに気づいているのか。それとも、ただ新入りへの警戒か。イレナにはまだ判断がつかなかった。
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昼を過ぎた頃、風向きが変わった。
イレナは足を止めた。
空気が——わずかに揺らいでいる。
エルドの部屋で感じたのと同じ感覚。魔法の気配。だが、エルドの訓練の時よりもずっと濃い。そして方角がある。南東。風下。
「リオ」
声をかけた。リオは振り返った。
「何だ?」
「南東です。小石が震えてる」
リオは眉をひそめた。
「揺れてる?」
その瞬間、リオの表情が変わった。地面の微かな振動を、自分でも感じ取ったらしい。
「……魔獣だ。しかも、でかい。ミロ、下がれ。イレナ、荷物を置いて後ろに——」
地面が揺れた。
灰色の砂利の中から、何かが這い出してくる。巨大な節足。岩のような甲殻。六本の脚が地面を掘き、体長は馬ほどもある。頭部に当たる部分に、赤黒く脈打つ何かが埋め込まれている。
灰蟲。灰燼地帯に棲む魔獣の一種。エルドの本で読んだことがある。甲殻は硬く、頭部の核が魔力で身体を動かしている。
「調査依頼だっつってんのに……!」
リオが短剣を抜いた。左手を前に出し、指を開く。息を吸い込む。手のひらの前で空気が歪む。
ミロが反射的に身を屈める。
「伏せろ!」
リオの怒鳴り声に、イレナは少し動きが遅れた。
次の瞬間、火球がリオの掌から放たれ、灰蟲の甲殻に直撃した。
轟音。火花が散る。だが——甲殻は焦げただけだ。灰蟲は怖んだ様子もなく、六本の脚で突進してくる。
「硬い——! ミロ、走れ!」
ミロが背を向けて走り出す。リオは二発目の火球を放つが、やはり甲殻を貫けない。
灰蟲が方向を変えた。ミロの方へ。逃げる者を追う習性。
「まずい——」
リオが追いかけるが、灰蟲の方が速い。六本の脚が砂利を蹴り、ミロとの距離が縮まる。
イレナは走っていた。
考える前に足が動いていた。またこれだ。頭が「逃げろ」と叫ぶのに、身体が前に出る。
だが今回は、ただの衝動ではなかった。
イレナは灰蟲を見ていた。六本の脚の動きを。どの脚が先に出て、どの脚が次に着地するか。そのリズムを。
——右前脚が着地した直後、左中脚が上がる。その瞬間、左側の側面が一瞬だけ無防備になる。
イレナは灰蟲の左側に回り込んだ。脚の動きの隙間を縫うように。灰蟲はイレナに気づかない。魔力反応のない存在は、魔獣の感知にも映りにくい。
腰帯に手が触れた。エルドから渡されたナイフ。
灰蟲の左中脚の関節。甲殻の継ぎ目。硬い殻と殻の間に、わずかな隙間がある。
イレナは走りながら、ナイフを関節の隙間に突き立てた。
刃が甲殻の継ぎ目に食い込み、関節の動きを噛ませた。灰蟲の脚が一瞬止まった。痛みではない。関節の可動が物理的に阻害されたのだ。
バランスを崩した灰蟲が、左に傾いた。六本脚の一本が機能しなくなっただけで、あの巨体の重心が狂う。
「——リオ! 左! 腹!」
叫んだ。灰蟲が傾いた側の腹が露出している。甲殻のない柔らかい部分。
リオは一瞬驚いた顔をした。だが、身体は動いていた。冒険者の反射だ。短剣を逆手に持ち替え、灰蟲の露出した腹に飛び込む。
刃が柔らかい腹に突き刺さった。
灰蟲が悲鳴のような金属音を上げた。脚がばたばたと痙攞し、やがて動きが止まった。
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静寂が戻った。
三人とも息が荒い。ミロは腰を抜かして座り込んでいる。リオは短剣を引き抜き、灰蟲の体液を拭いていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてリオが、イレナを見た。イレナの顔をじっと見ている。何かを考えている顔だ。
そして、口を開いた。
「お前——魔法、見えてなかっただろ」
心臓が跳ねた。
「俺が火球を撃った時、お前の反応は一拍遅かった。周りに魔力の光が広がった時、ミロはすぐ体を伏せた。でもお前は俺が言うまで、火が出るまで動かなかった」
あの時と同じだ。路地裏で冒険者に絡まれた時も、魔力の光に反応できなかった。見える人間には、それがわかる。
「……はい。見えていません」
沈黙。
リオの表情が固くなった。
「もしかして、色なき民か」
「はい」
長い間があった。風が灰色の砂利の上を吹き抜ける。
リオは短剣を鞘に収めた。
「……帰るぞ。報告書を出さなきゃいけない」
それだけだった。
帰り道、リオはイレナと一言も話さなかった。
だが、来た時とは何かが違っていた。リオの背中が、ほんの少しだけ、イレナの方を向いている。
完全に背を向けていない。
それが何を意味するのか、イレナにはまだわからなかった。
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南門をくぐり、ギルドに戻った。
リオが受付で報告書を提出した。調査依頼の報酬として銀貨一枚。三等分して、銅貨三枚と端数の小銅貨がイレナの掌に載った。
日雇い二日分。半日で。
受付の職員が報告書に目を通し、顔色を変えた。
「灰蟲の討伐もお疲れさまでした。回収班を出します。場所はここですね」
地図に印をつけ、奥に声をかける。
「死骸を回収するんですか?」
イレナが訊くと、職員は慣れた口調で答えた。
「はい。回収班がこちらから向かいます。甲殻は防具の素材に、核は色石の原料になりますので。冒険者の方に持ち帰っていただく必要はありません。討伐報酬は素材の査定後に別途お支払いします。灰蟲でしたら、銀貨三枚から五枚ほどになるかと」
ミロは目を丸くした。
「銀貨五枚だって! 調査報酬の五倍じゃないか!」
「取らぬ狸だ。査定次第で下がる」
リオが背を向けて歩き出した。
「リオ」
イレナは呼び止めた。リオが足を止める。振り返りはしなかった。
「……次の依頼、また声をかけてもらえますか」
長い間。
「依頼板を見ろ。募集があれば、来い」
突き放すような声。だが、「来るな」とは言わなかった。
ミロがイレナに小さく手を振って後を追った。
イレナは銅貨を握りしめて、貧民街への帰路についた。
夕暮れの空は灰色だった。いつもと同じ色。
だが、首にかかった銅の札の重さが、朝とは少しだけ違って感じられた。
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