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魔力ゼロの色なき少女は、魔法を解きながら居場所を探す  作者: 稲野翔


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第3話 見えないから、見えるもの

エルドの住まいは、貧民街と商業区の境目にある、古びた石造りの共同住居の一部屋だった。


階段は踏み板が三枚抜けていて、壁は湿気で黒ずんでいる。イレナの「家」と大差ない。ただ、決定的に違うことが一つあった。


本だ。


部屋の三方の壁に、床から天井まで本が積まれている。棚と呼べるようなものはなく、木箱や板を組み合わせた即席の台の上に、革装の古書、綴じ合わせのノート、巻物の写しが雑然と並んでいる。部屋の中央には広い作業机があり、その上にも本と紙が散乱している。


「そこに座れ」


エルドが指さしたのは、作業机の前の木椅子だった。イレナは周囲を見回しながら、おそるおそる腰を下ろした。


エルドは外套も脱がずに、向かいの椅子に座った。机の上の本の山から一冊を引き抜き、無造作に開く。


「まず、確認だ。手を出せ」


「……何をするんですか」


「触るだけだ。痛くはない」


イレナは迫って、右手を差し出した。エルドはその手首を掴み、もう片方の手で何かを唱えた。エルドの指先に何かが起きたらしい。だが、イレナには何も見えない。


感知魔法。冷たくもない。くすぐったくもない。ただ、エルドの指が手首に触れている感覚があるだけだ。


エルドの目が細くなった。


「……やはり、そうか」


「何が『やはり』ですか」


「魔力の反応が完全にゼロだ。感知魔法がお前の身体を『空白』として認識している。そこに人がいるのに、いないことになっている」


エルドは手を離し、ノートに何かを書き込んだ。


「普通の色なき民でも、多少の残留反応があるものだ。だがお前は——完全なゼロ。これは珍しい」


その声には、感情の色が混じっていた。興奮。知的な興奮。イレナを「人」としてではなく、「現象」として見ている目。


——この男は、私を研究対象として見ている。


わかっていたことだ。だが、実際にその目を向けられると、胃の底が冷たくなる。


「……契約の話を、聞かせてください」


エルドはノートから顔を上げた。


「単純な話だ。お前は俺の研究に協力する。実験、測定、観察。その代わり、俺はお前に知識を与える」


「知識」


「魔法の知識だ。お前は魔法を使えない。だが、魔法がどう動くかを『理解』することはできる。それを教える」


「使えない魔法を理解して、何になるんですか」


エルドは一拍置いて、答えた。


「生きる助けになる」


---


その日から、イレナの生活は変わった。


午前は日雇いの仕事。午後はエルドの部屋で「訓練」。それが新しい日常になった。


ただし、イレナが想像していた「訓練」とは、中身がまるで違った。


「読め」


エルドが最初に渡したのは、分厚い本だった。『色彩魔法の基礎理論』。学院都市の初等課程で使われる教科書だという。


「……読めないんですが」


「字が読めないのか」


「読めます。でも、意味がわかりません」


イレナは字を読むことはできる。集落の長老が教えてくれた。だが、学術書の言葉は別の言語のようだった。「魔力の周波数帯域」「色彩光の干渉パターン」「複合配合の相転移閾値」——文字の並びは読めても、意味が頭に入ってこない。


エルドは溢息をついた。ただし、それは苛立ちではなく、自分の見積もりの甘さに対するものだったらしい。


「……いい。本は後でいい。まずは口頭で教える」


そこからの数日間、エルドは魔法の基本を、イレナにもわかる言葉で説明し続けた。


「魔法は料理だと思え」


エルドは机の上に四つのインク瓶を並べた。赤、青、緑、黒。


「大気中に漂う魔力は『色』として存在する。赤は熱。青は水。緑は生命。黒は腐食。魔法を使うというのは、この色を『汲み取り』『配合』し、『組み上げる』行為だ。料理の食材を集め、切り、調理するのと同じだ」


「……同じ『赤』でも、使い方が違うと結果が変わる」


「そうだ。赤を薄く広げれば温もり、濃く集めれば炎になる。青と混ぜれば蒸気、緑と混ぜれば発熱治療。料理と同じで、レシピは無数にある。そして、失敗すれば爆発する」


イレナはページをめくる。


「……でも、私にはその『食材』が見えません」


「見えない。感じもしない。それが色なき民だ」


エルドは一拍置いた。


「ひとつ覚えておけ。『魔力』と『魔法』は別物だ。魔力は食材——お前には見えない。だが魔法は料理の方だ。炎が上がれば熱いし、明るい。それはお前の目にも映る。お前が見えないのは、調理される前の食材の方だ。だがな」


エルドは指を一本立てた。


「見えなくても、『ある』ことはわかる」


「どういう意味ですか」


「お前には食材が見えない。だが、料理人が何をしているかは見えるだろう。包丁で切る。鍋で混ぜる。火加減を見る。皿に移す。そういった『動作』から料理ができる」


「……はい」


「魔法も同じだ。魔法を使う人間には、必ず『予備動作』がある。手の動き、息のリズム、視線の向き、空気の変化。魔力を感じる人間は、そんなものは見ない。魔力の流れだけを読むからだ。だが、お前は魔力が読めないなら、それ以外の全てを読むんだ」


イレナは黙った。


今まで、「魔力が見えない」ことは欠落だと思っていた。足りないもの。押さえつけるべき弱点。


それを、この人は弱点ではなく、読み方の違いとして見ている。


「……信じられません」


「信じる必要はない。証明すればいい」


エルドは立ち上がり、窓のない壁に向かった。


「今から、俺が魔法を使う。お前はそれを見ろ。魔力ではなく、俺の身体を見ろ。どのタイミングで、どの手が、どう動くか」


エルドの右手がゆっくりと上がる。指が二本、三本と開き、手首がわずかに回転する。息を深く吸い、止め、吐く。その瞬間——イレナには何も見えなかった。だが、空気がわずかに温かくなった。


小さな熱源。蝋燭ほどの温もりが、エルドの指先から漂っている。


「今のを説明しろ」


イレナは一瞬言葉に詰まったが、感じたままを口にした。


「……右手を上げて、指を開いて、手首を回しました。それから息を止めて、吐いた時に——空気が温かくなりました」


「そうだ。それが『予備動作』だ。指を開くのは色を汲み取る準備、手首の回転は配合の方向を決める動作、息を止めるのは集中、吐くのが発動の引き金だ。魔力を感じる人間は、この動作を見ない。赤い光の流れだけを追う。だがお前は、光が見えない分、その前にある『動作』を読めた」


イレナは息を飲んだ。


それは——確かに、そうだった。何かが起きる前に、エルドの身体が動いていた。その動きを、イレナは確かに見ていた。


「これがお前にとっての『目』になる。魔力の代わりに、動作を読む。それを訓練する」


「……どうやって」


「簡単だ。俺が毎日魔法を使う。お前はそれを見ろ。ただそれだけだ」


---


それからの日々は、地味だった。


エルドは毎日、同じ魔法を繰り返す。小さな火。水の球。そして、イレナには見えない淡い光。そのたびにイレナは、エルドの身体の動きを観察し、言葉にする。


最初の三日は、ほとんど何も見えなかった。


「右手を上げて、指を開きました」


「それだけか」


「……それだけです」


四日目、息のリズムに気づいた。


「息を止めてから、少し間があって、吐いた時に空気が変わります。息を止めてから変わるまで、だいたい二拍くらい」


エルドは無表情だったが、ノートに何かを書き込んだ。


一週間が過ぎた頃、イレナはエルドの動作の「順序」を全て言えるようになっていた。


「まず空気がわずかに揺らぐ。それから手が動いて、息が止まって、吐いた瞬間に空気が変わる。空気が揺らぐぎりぎりのところで、周りの温度が少しだけ動く。上がるか、下がるか。それで『赤』か『青』かがわかります」


エルドは初めて、わずかに頷いた。


「……そこまで読めるとは思わなかった。なぜ、そこまで読める?」


唐突な問いに、イレナは瞬きをした。


「え」


「手の動きも、息の切り替わりも、温度の変化もだ」


答えようとして、言葉が止まる。考えたこともなかった。


ただ、見ていただけだ。誰がこちらを見ているか。いつ気づかれるか。逃げるならどの路地か。


市場でも、路地でも、衛兵の巡回でも、先に気づかなければ逃げ切れない。だからずっと、人の向きや足の運び、声の調子を読んできた。


「……見つかったら、終わりだったので」


口にしてから、イレナは自分で少し驚いた。


「誰がこっちを見てるかとか、いつ気づくかとか、どこに逃げればいいかとか……そういうのを、ずっと見てました。見ないと、生き残れなかったから」


エルドは何も言わない。


「合格ですか」


「合格も不合格もない。観察に終わりはない。だが——」


エルドはノートを閉じ、イレナを見た。その目は相変わらず「読んでいる」目だったが、その奥に別の何かが混じっているようにも見えた。


「お前の観察力は、俺の予想を超えている。それは研究者として、素直に興味深い」


褒め言葉だろうか。おそらく、そうだ。だが、それは「人」に対する褒め言葉ではない。「優秀な被験体」に対する評価だ。


それでも、イレナは口元が緩みそうになるのを必死で押さえた。


計算でもなく、感情でもなく。ただ、生まれて初めて、「イレナであること」が意味を持った瞬間だった。


欠落ではなく、特性。


弱点ではなく、視点。


それが本当に正しいのか、まだわからない。だが、少なくとも今は、この雑然とした部屋で、偗れた男の前で、自分の目が「見る」ことを許されている。


それだけで、今は十分だった。


「……エルドさん」


「『さん』はいらない」


「エルド。明日も、来ていいですか」


エルドは面倒くさそうに手を振った。


「契約だろうが。来るなと言った覚えはない」


その無愛想な声が、不思議と嫌ではなかった。


イレナは部屋を出て、崩れかけた階段を降りた。外に出ると、空はまだ灰色だった。


だが、昨日までとは少しだけ、見えるものが違っていた。

読んでいただきありがとうございます。

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