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魔力ゼロの色なき少女は、魔法を解きながら居場所を探す  作者: 稲野翔


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第1話 色のない空の下で

はじめまして。

魔力を持たない少女イレナが、灰色の街で生きるところから始まります。

少しずつ物語が動いていくので、楽しんでいただけたら嬉しいです。

目を覚ますと、天井の染みが薄暗い光の中で浮かんでいた。


窓のない部屋だ。壁の隙間から差し込む細い光だけが、朝が来たことを教えてくれる。イレナは薄い毛布を身体に巻きつけたまま、しばらく動かなかった。


寒い。


部屋の隅に、ひび割れた暖房石がひとつ転がっている。上の街で捨てられたものを、誰かが貧民街に流した中古品だ。イレナは毛布の端を握ったまま、石に指先を押し当てた。


冷たい。


目を閉じて、息を整える。意識を指先に集める。幼い頃に耳にした通り、石の奥にある火種を撫でるようなつもりで、ゆっくりと力を流し込む——。


何も起きない。


ただの石みたいに冷え切ったまま、沈黙している。


イレナは指を離した。もう何度試したかわからない。手の形を変えても、呼吸を変えても、祈るように念じても結果は同じだった。魔力を持つ人間なら、こんな屑石でも薄く温もる。けれどイレナの手の中では、最初から最後まで、ただの灰色の塊でしかない。


イレナには魔力がない。通称、色なき民。


身体を起こす。床に敷いた藁束の上で、関節がぎしりと鳴った。十四の身体には似合わない音だと、自分でも思う。


着替えるほどの服はない。昨日と同じ、色褪せた灰色の上着の埃を手で払い、革紐で腰を締める。袖は長すぎるから、肘のあたりで折り返す。


部屋を出ると、貧民街の朝の空気が肌を刺した。


石畳の隙間から雑草が伸び、建物の壁には苔がこびりついている。路地の奥からは昨夜の酔っぱらいのいびきが聞こえ、どこかで赤子が泣いていた。自由都市マーケット——冒険者と商人が集まる中立都市。その華やかな名前とは裏腹に、光の届かない場所はどこまでも薄暗い。


イレナは路地を歩きながら、無意識に周囲を観察する。


誰がどこにいて、どちらを向いていて、こちらに気づいているかどうか。それは呼吸と同じだ。考えるより先に身体が動く。目立たないこと。気配を消すこと。それが、この街で生きるための最低限の技術だった。


——特に、自分のような人間には。


市場に近づくにつれて、人の流れが増えてくる。露店の商人が声を張り上げ、冒険者たちが装備の手入れをしながら談笑している。


通りの両側に、等間隔で石柱が並んでいる。魔力灯だ。この街に来た頃、誰かがそう教えてくれた。魔力がロウソクの火のように周りを照らしてくれるらしい。だがイレナには、磨かれた白い石の棒にしか見えない。朝もやの薄暗さしか、そこにはなかった。


イレナには、魔力の光が見えない。


色なき民。


魔力を持たず、魔法を使えず、魔法の恩恵を受けられない人間。この世界では、それは人であって人でないことを意味する。


市場の裏手に回ると、太った男が木箱を並べていた。食料品店の店主、ゴルツ。イレナが毎朝通う、数少ない雇い主のひとりだ。


「来たか。今日は荷降ろしと仕分けだ。銅貨三枚」


挨拶はない。名前も呼ばない。それでいい。名前を覚えられるということは、顔を覚えられるということだ。顔を覚えられれば、素性を探られる。


「……わかりました」


イレナは頷いて、木箱に手をかけた。


重い。中身は根菜だろう。両腕に力を込めて持ち上げ、指定された場所まで運ぶ。それを繰り返す。単純な作業だ。魔法はいらない。力と忍耐だけでいい。


だからこの仕事を選んでいる。


魔法を使う仕事は受けられない。魔法灯の補充、魔力炉の清掃、感知石の設置——この街の仕事の大半は、多かれ少なかれ魔力に触れる。触れた瞬間に、何も反応しない自分の身体が露呈する。


木箱を五つ運び終えた頃、市場の入口が騒がしくなった。


「——おい、定期巡回だ」


イレナの手が止まりかけた。が、止めることなく自然を装う。


市場の入口に、二人の衛兵が立っている。片方が手のひらほどの大きさの石板を掲げていた。感知石。魔力の流れを読み取り、周囲の人間の魔力反応を記録する道具だ。


定期巡回。月に二、三度ある。目的は密輸品の摘発と、不法滞在者の洗い出し。


そして——色なき民の発見。


感知石は範囲内の全ての人間の魔力反応を拾う。逆に言えば、反応が「ない」人間がいれば、それは即座に目立つ。大勢の光の中にぽっかり空いた暗闇のように。


イレナは木箱をそっと下ろした。


走ってはいけない。急に動けば目を引く。息を整え、いつもの手順を頭の中でなぞる。


裏口。この店の裏口は路地に面している。路地を北に抜ければ、建物の隙間を縫って貧民街に戻れる。感知石の有効範囲は半径五十歩ほど。今の距離なら——


「おい、小僧。まだ箱が残ってるぞ」


ゴルツの声。イレナは振り返らなかった。


「すみません。急用を思い出しました」


「——おい!」


背後の怒声を無視して、裏口から路地に滑り込む。


走らない。早足で、しかし自然に。壁に沿って影を拾いながら、建物の角を曲がる。もう一つ曲がる。貧民街の路地は入り組んでいて、慣れない人間にはすぐに方角がわからなくなる。


だが、イレナにとっては庭のようなものだった。


三つ目の角を曲がったところで、ようやく足を止めた。背中を壁に預け、息を吐く。心臓が早鐘を打っていた。


銅貨三枚。今日の稼ぎが消えた。


明日の食事は、昨日の残りの干し芋だけ。水は井戸から汲める。それで一日は持つ。その次の日は——考えても仕方がない。


イレナは空を見上げた。建物の隙間から覗く空は、薄い灰色をしていた。この街の空はいつもこんな色だ。灰燼地帯から風が吹くと、細かい灰が空を覆う。


色のない空。色のない自分。


いつまで、こうしていられるだろう。


隠れて、逃げて、名前を捨てて。それでも、感知石の網はじわじわと狭まっている。学院都市の技術が自由都市にも広まりつつある。いつか、逃げ場はなくなる。


その時、自分はどうなるのか。


答えは知っている。考えたくないだけだ。


イレナは壁から背中を離し、再び歩き出した。貧民街の奥へ。暗い路地の先へ。今日もまた、灰色の一日が始まる。


この時のイレナは、まだ知らなかった。


今日という日が、灰色の日々の最後になることを。

読んでいただき、ありがとうございます。

ここではまだ、イレナの「何も持たない日常」の入り口ですが、ここから少しずつ灰色の日々が動き出していきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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