穢れを移すもの
ぶわっ。
彼女が部屋に入った瞬間、黒い気配が畳の隙間に溜まっていくのがわかった。
濃い。
去年よりも明らかに。
まるで渦を巻くように嫉妬や怨念が彼女に纏わりついている。
いったいどんな日々を過ごせば、ここまで澱ませることができるのだろう。
私は高い場所から彼女を見つめた。
袖口が少しほつれて見えた。
「安心してほしい。私が全部、受け止めてあげるからね」
刺々しい髪は無秩序に伸び続け、切られる暇もなかった時間が、そこに絡みついていた。
その穢れを受け入れる。
身体は、拒むことを知らない。
ここに在るために、そう作られている。
儀式の準備は着々と進められていく。
提灯に明かりが灯り、
白く濁った甘い香りが漂い、
捧げものが整然と並べられる。
慎ましやかな演奏が、どこか浮かれた調子で流れた。
ようやく、この場は整った。
私はただ、見守るだけで特にやることはない。
だが、それを静かに受け止める覚悟だけは持っている。
これから始まる、移し替えのための時間。
人々はこの部屋に集まってきた。
大きな桶の中にわずかに黄ばんだ米が敷かれ、その上にぬめりを帯びた切り身が鈍く光る。
さらにその上に、髪の毛のような細長い黒が静かに散らされた。
鼻をつく、甘酸っぱい匂いが立ち込める。
それは、何度見ても不気味な料理だった。
人々は、それを貪る。
むしゃむしゃ、むしゃむしゃ。
……おぞましい。
いったい幾つもの命を一度に頬張れば気が済むのだろう。
一瞬、女性の視線が一度だけこちらをかすめた。
すると、それに呼応するように人に憑く穢れが宙を舞った。
目の前を漂う、焦げついた気配。
それは、ためらいもなく、真っ直ぐこちらへ忍び寄ってくる。
──身体の内側で何かが軋んだ。
私はとっさに目をそむけようとした。
けれど瞬きはしなかった。
それが、ここに座る者の役目だからだ。
これからどんな目に会うのだろう。
この穢れは人間のどんな感情なのだろう。
言葉にできなかった叫びか。
飲み込まれた涙か。
誰かを呪った夜か。
やがて、すべては静まった。
──移し替えが終わると、私は箱へ戻される。
彼女とは、一瞬しか会えない。
「ゆっくりと浄められ、軽くなってほしい」
それが私の唯一の願いだった。
手に持っていた笏が外される。
重ねられた手は、また同じ形に整えられる。
箱の中は、静かで、少しだけ息苦しい。
隣の白い顔は、闇の中でも淡く光っている。
何年も同じ角度で、微笑んだまま。
──あぁ、来年また会いましょう。
私の愛しい、お雛様。
押し入れの奥で、夜ごと小さな音がする。
きし、と。
かすかに何かが動く気配。
私は耳を澄まさない。
受け止めるのは、三月三日だけでいい。
「それまでは、ここで静かに眠らせておこう」




