第4話:異世界の食卓
「ッ……!?」
静まり返った広場に、軽快で、それでいてこの場にはあまりに不釣り合いな音が鳴り響いた。
一度目の『ピコン』。
村長をはじめ、村人たちの身体が目に見えて硬直する。彼らにとって、それは聞いたこともない、魂を揺さぶるような未知の響きだった。
シュウは慌てて画面を伏せようとしたが、指が思うように動かない。
(やばい、マナーモードを忘れてた……。いや、それ以前の問題だ。ここでスマホを鳴らすのは、ガソリンスタンドで煙草を吸うよりタチが悪い)
追い打ちをかけるように、二度目の『ピコン』が響いた。
液晶がまばゆく光り、シュウの掌の中で緻密な光の紋様が躍る。
「――ッ! ア、アクマ……! ノ, ノイズ……!」
自警団長のバティルが、喉を鳴らすような異様な音韻で叫んだ。
シュウの脳には『悪魔』『呪いの音』という忌まわしいニュアンスが直接流れ込んでくる。バティルが農具を改造した槍を突き出し、その穂先がシュウの胸元へ一気に迫った。銀色に光る鉄の切っ先が、N3-Bのナイロン生地を今にも貫こうとする。
「マ, マッテ……! コ, コレ……! トリ……!」
一触即発の空気の中、隣にいたアイスルーがシュウの前に割って入り、鳥の囀りのような高い声で叫んだ。
トリ。
彼女の口から出たその「音」を聞いた瞬間、村長が大きく目を見開いた。
それは、この世界を創世した女神が、邪悪な嘘を暴き、持ち主の行く末を照らすために地上へ遺したとされる伝説の聖具。今の世ではその姿形すら失われ、古い伝承の中にのみ存在するはずの名称だった。
「コレ, ……カガミ……! ヒカリ, ……メッセージ……! コノ, ……オト……, セイレイ……!」
アイスルーが必死に紡ぐ「音」は、シュウの脳内で『鏡』『光る伝言』『精霊の調べ』といった断片的な意味へと変換される。
村長は、シュウが手に持つ不思議な「板」に、戦慄にも似た畏怖の眼差しを向けた。
彼女の必死な嘘と、目の前のあまりに美しく異質な「物体」が放つ説得力は、村人たちを納得させるに十分すぎるものだった。
銀髪の老人が、何らかの理由でこの村に現れた。
村長は、深い敬意を込めて、震える手で最敬礼を捧げた。
言葉の細かな意味までは判然としないが、自分に向けられた殺気が、瞬時にして妙に重苦しい期待へと変わったことだけは肌で伝わってくる。
(言葉が通じないから余計に、誤解だけは着実に積み上がっていくな……。このこじれた状況、どうやって修復すればいいんだ?)
シュウは困惑を押し隠し, ただ黙って頷くことしかできなかった。
***
その日の宿は、アイスルーの家へと決まった。
彼女の家は村の外れにある、石と泥を塗り固めて造られた素朴な家だった。厳しい風雨に耐えてきた無骨な外観に反して、手入れの行き届いた小さな窓からは、生活の温かさを感じさせる灯火が漏れていた。
「タダイマ, ……ハハ……! オ, キャクサマ……!」
扉を開けると、中から小柄な女性と、がっしりとした体格の少年が飛び出してきた。
母のグルジャンと、末弟のカイル。
アイスルーから事情を聞き終えた母親は、すぐさまシュウに向き直り、膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。
「……arigato……。ムスメ, ……タス, ケテ……, ariがto……」
溢れる涙を拭いもせず、何度も感謝の「音」を繰り返す母親。
シュウは困ったように眉を下げ、彼女の母親の肩をそっと叩いた。
「いや、無事でよかった。本当に」
日本語は通じない。シュウの声は彼女たちには意味の取れない不自然な音の連なりとして聞こえているはずだが、その穏やかな音色は彼女を安心させたようだった。
一方で、十五歳のカイルは、すでに現実的な関心をシュウに向けていた。
シュウが纏っているN3-Bジャケットの滑らかな光沢。太腿に固定されたレッグバッグの、複雑怪奇なバックル。そして、足元を固めるハーフブーツの、泥一つ染み込まない堅牢な造り——。
「ハハ, ……コレ, ……ナニ……? カワ, ……ジャ, ナイ……。マホウ, ……イト……?」
カイルの呟きが、シュウの脳内で『素材への疑問』として結実する。その目は「未知の工夫」への渇望でギラギラと輝いていた。
その視線に、シュウはかつて自分のガレージで工具を欲しがった息子の姿を重ね、ふっと表情を緩めた。
(道具に惚れるのは, どの世界でも同じか)
***
その夜の夕食。
木製のテーブルに並べられたのは、具だくさんのスープと、少し硬めの黒パン、それから乾燥させた果物。
一口啜ったスープは、少し塩気が強かったが、五臓六腑に染み渡るような滋味があった。
(……うまいな。豪華な食事を期待したわけじゃないが、温かいってだけで百点満点だ)
言葉の壁は依然としてそこにあったが、家族三人の賑やかなやり取り——意味はわからずとも、その「幸福な音の重なり」を眺めていると、シュウは自分がどこか遠い異郷に飛ばされたことさえ、一瞬忘れてしまいそうになった。
***
食後、シュウは一人、夜風に当たるために外へ出た。
見上げた夜空には、日本の空では決して見ることのできない、暴力的なまでの星の群れがあった。
(……北斗七星。カシオペアか)
見慣れた星の並び。だが、そのわずかな「ズレ」が、どうしても喉の奥に刺さった小骨のように気にかかった。
シュウはポケットからスマホを取り出し、水準器のツールを立ち上げた。
端末を夜空へ向け、北極星を見通すように角度を合わせる。
「……四十, 二度か」
北緯四十二度。神奈川(北緯三十五度)よりも遥かに北。
続けてコンパスと気圧計の画面を確認する。
『高度 1620m』
「……どうりで, さっきから身体が妙に重いわけだ。心筋梗塞でも起こしたら, 誰にも救急車を呼んでもらえねぇぞ」
北緯四十二度、標高一六〇〇メートル。
昼間見た乾燥した草原の広がり、低く垂れ込める雲、そして家々の造り。
(チベットか、あるいはもっと別の……。どこにせよ、小田原からはとてつもなく遠い、日本ではない場所なのは間違いねぇ)
ふと、疑問が鎌首をもたげる。
なぜ、自分はこんなところにいる。
あの交差点での衝撃。対向車のライトに焼かれた視界。そこからどうやって、この高地に辿り着いた。
(誰かに運ばれたのか? 気を失っている間にヘリか何かで? ……馬鹿馬鹿しい。身体に傷一つねぇし、服だって事故の痕跡すらねぇ)
KRはどうなった。あの愛車の鼓動だけが、最後に聞いた現実の音だったはずだ。
自分がどうやってここに来たのか。物理法則を無視した移動をどう説明すればいい。
(……考えても無駄か。今の俺には、答えを出すための材料が少なすぎる)
シュウは大きく溜息をつき、無理やり思考を打ち切った。分からないことを考え続けるほど、若くはない。今はただ、目の前の状況を整えることだけに注力すべきだ。
冷たい数字と知識が、現実という名の重圧となってシュウの背中にのしかかる。
だが、その重圧を辛うじて押し留めているのは、画面左上に点灯している『3G』の文字だった。
(……しかし、なんで繋がる。基地局はどうなってんだ)
周囲を見渡しても、闇夜に沈む岩山と平原があるだけだ。ハイテクな電波塔なんて、どこにも見当たらない。
(あっても、あの遠くの山の上か……? 箱根の山の中でもあるまいし、冗談じゃねぇな。キャリアの保守担当はどんな地獄の登山をさせられてんだよ。……いや、そもそもだ)
アンテナ一帯の表示に目を凝らす。
そこには三Gの表示に隣接して、見慣れた『docomo』の文字列が浮かんでいた。
(なんでdocomoなんだよ。海外ならローミング先のキャリア名が出るはずだろ……。意味がわからん。通信規格以前の謎だ)
アンテナは一本。通信速度は、今時笑えないほどに遅い。
かつての「最速」も, 今や情報の細い糸でしかない。
(動画どころか、画像一枚開くのにもカップラーメンが出来上がるくらい待たされる……。3Gなんて、絶滅危惧種のシーラカンスみたいなもんだろ)
そんな愚痴を吐きながらも、シュウはその細い糸を離せなかった。
画面には未読メッセージを知らせる小さな赤い印がついていた。
『いつ帰ってくるの?』
『朝ごはんいる?』
理沙。
日本にいる妻からの、日常そのものの問いかけ。
その文字を見た瞬間、シュウの胸の奥が、熱い何かで締め付けられた。
(帰りてぇ……)
刺すような冷気の中に白く消えていった、独白。
理沙は今頃、小田原の自宅で、冷めた紅茶を前に怒りを溜めているだろう。夫が突然、異国の高地で、たった一枚の『光る板』を手に途方に暮れているなど、夢にも思わずに。
シュウは誰に聞かせるでもなく、ぽつりと独りごちた。
「……悪い。朝飯, 間に合いそうにないわ」
震える指で、メッセージの「既読」をつける。
今の自分にできる、唯一の返信。
ピコン。
不意に、掌の中で新たな通知が弾けた。
それは、自分を「三上修一」の日常へと引き戻そうとする、微かな、けれど確かな呼び声のように思えた。
(第4話・了)




