第3話:日常の亀裂
朝、六時。
神奈川県小田原市、城下町の端っこにある我が家の朝は、いつも決まった「音の重なり」から始まる。
キッチンで修一さんがお湯を沸かす音。
トースターが軽快に跳ね上がる音。
それから、豆を挽く電動ミルの、少し耳障りな低い回転音。
五十六歳にもなって少年のような好奇心を持ち続ける夫は、義務感からではなく、ただそれが好きでたまらないといった様子で朝食の準備をする。
それらの音が寝室まで届くのが、私の目覚まし代わりだった。
だが、今朝はその朝の習慣が完全に沈黙している。
耳を澄ませても、聞こえるのは遠くを通る東海道線の走行音と、窓の外で空気を読まずに鳴く鳥の声だけだ。
(……珍しい。寝坊かしら?)
エンジニアらしく几帳面な修一さんは、週末だろうがなんだろうが、私より先に起きて朝食の準備を整える。それが二十年来、彼が楽しみながら続けてきたモーニングルーチンのはずだ。
私は重い身体を起こし、冷えたフローリングに足を下ろした。
寝室を出て、廊下の先にあるリビングへ向かう。
案の定、キッチンに明かりは灯っていない。
昨夜の夕食後のまま、綺麗に片付けられた無機質な空間。
そこには、焼きたてのパンの匂いも、コーヒーの香ばしさも存在しなかった。
「修一さん?」
返事はない。
喉の奥に冷たい氷を押し込まれたような、ざらついた予感が胸をかすめる。
私は廊下を戻り、彼の寝室のドアを軽くノックした。
「修一さん、もう六時過ぎ……」
返答を待たずにドアを開ける。
そこには、主の去った跡が、無造作に残されたままのベッドがあった。
シーツは乱れたままで、主の体温が引いてからかなりの時間が経っていることだけが伝わってくる。
脱ぎ捨てられた部屋着が椅子に放り出されたままで、彼が一度はこの部屋で眠り、そして夜の間にどこかへ消えたことを物語っていた。
胸の奥で、小さな、けれど見過ごせない違和感がチリリと音を立てた。
これは「寝坊」ではない。「不在」だ。
*
(ガレージかしら)
そう思い直し、私は一階の勝手口からガレージへと向かった。
あの人は、一度バイクを弄りだすと時間の概念を忘れてしまう。
どうせ昨夜も、私たちが寝静まった後にこっそり抜け出したのだろう。そのまま朝まで整備に没頭しているのか、どこかの海沿いで夜明けを待っているのか……。そんなパターンは、過去の経験でも何度かあった。
だが、ガレージの前に立った瞬間、私のそんな呑気な読みは一瞬で冷え切った。
重い手動式のシャッターが、全開になっていた。
防犯意識などどこかへ置き忘れてしまったかのように、朝の光をガレージの奥まで無遠慮に招き入れている。
湿った朝の空気が流れ込むガレージの中。
そこにあるべきはずの、あのライムグリーンの車体がない。
バイクがないのは予想通りだったが、この光景は、あまりに無頓着だった。
几帳面なフリをして、バイクのこととなるとこれだ。防犯もなにもあったものじゃない。
たぶん、これまでも私が気づかないだけで、似たようなことはしょっちゅうあったのだろう。
そう思うと、ただの「勝手な朝駆け」が、余計に無責任で腹立たしいものに思えてくる。
事故?
いや、あの人は慎重すぎるくらい慎重なライダーだ。おまけに古いバイクだから、無茶なスピードは出さない。
なら、故障してどこかで立ち往生しているのか。それとも――。
修一さんが二十代の頃から執念で維持し続けている、カワサキのKR250S。
あんな手間も金もかかる金食い虫、とっくにスクラップにすればいいのに。
床には、彼がいつも敷いているオイル受けの新聞紙だけが、主を失って所在なげに残されていた。
「……帰ってきてない」
私は耳を澄ませた。
小田原の静かな朝の空気を切り裂いて、あのやかましい二ストロークエンジンの排気音が聞こえてこないか。
パン、パンパンパン、と乾いた高い音。
住宅街では肩身が狭いからと、いつも家から少し離れた場所でエンジンを切って、惰性で帰ってくるあの独特の気遣い。
……けれど。
五分待っても、十分待っても、聞こえてくるのは近所の人がゴミを出しに行く音や、散歩中の犬の鳴き声だけ。
気がつけば、私の指先は寒さ――あるいは正体の知れない不安で、微かに震えていた。
「もう……。どこまで走りに行ってるのか知らないけれど、連絡の一本くらい寄こしなさいよ」
溢れたのは、心配よりも先に「呆れ」と「怒り」。
五十六歳にもなって、外泊の連絡一つ寄こさないなんて。
私がどれだけ分刻みのスケジュールで家庭と仕事をやりくりしているか、あの分からず屋は理解しているのか。
キッチンに戻り、私は乱暴にスマホを手に取った。
*
六時三十分。
まだ薄暗いスマートフォンの画面。
私は LINE の入力画面に、突き放すような冷たさを込めた文字を打ち込んだ。
『いつ帰ってくるの?』
送信ボタンを叩く。
当然のように既読はつかない。
続けて、もう一通。
これは、私なりの最後通牒だ。
『朝ごはんいる?』
一秒、二秒。
画面を凝視するが、既読の二文字は浮かんでこない。
修一さんは、スマホを弄るのが呼吸と同じくらい好きなはずだ。
いつもなら「今どこどこで、これこれこういう理由で手間取ってる」と、聞いてもいないような細かい状況説明を画像付きで送ってくる。
暗い画面に反射した自分の顔は、心配している妻というより、徹底的に相手を追い詰める時の冷徹な顔をしていた。
「趣味に夢中になるのは結構だけど、少しはこっちの身にもなりなさいよ。バカ修一」
私は力任せにヤカンに水を注ぎ、コンロの火をつけた。
夫が淹れてくれるはずだったコーヒーの代わりに、自分で紅茶でも淹れないことには、この苛立ちのやり場がない。
シュンシュンと鳴り始めたヤカンの音だけが、無人になったリビングに響く。
お湯を沸かし、ティーバッグをカップに沈め、返信を待つための「気休め」を用意する。
だが、それから何分が経っただろうか。
カップから立ち上っていた湯気が消え、水面にうっすらと膜が張り始めるほど時間が経っても、手元の液晶画面に変化はない。
いつの間にか冷めきってしまった紅茶に、私は一度も口をつけないまま、ただ一向に変わる気配のない既読の文字を睨み続けていた。
この沈黙が、単なる「遅れ」ではなく、私たちの日常の「破綻」の始まりだとは、この時の私はまだ、知る由もなかった。
(第3話・了)




