第1話:アイ、スル
対向車のハイビームが、視界を真っ白に焼き尽くした。
――眩しい。
反射的にセパレートハンドルを絞り込み、ブレーキレバーに指をかける。
その瞬間、愛車・KR250Sのフロントが跳ねた。
二十代の頃から身体の一部だった、アスファルトのざらついた感触が、ふっと消える。
浮いた、と思った。
いや、世界から放り出されたのだ。
世界が横倒しになり、スローモーションの中でカストロールの――二ストローク特有の、中毒性のある甘い匂いが鼻をかすめる。
次の瞬間、俺の身体は冷たい草の上を滑っていた。
*
衝撃。鈍い音。
叩きつけられた地面は、記憶にある日本の土よりも、ずっと柔らかかった。
交差点でのスリップの延長のように、俺の身体は湿った草の上を軽く滑って止まった。
「……っ、生きてる、か?」
ヘルメットの中で、自分の荒い息がうるさいほど反響している。
厚手のN3-Bがクッションになったのか、どこかを痛めた様子はない。
俺はすぐさま身を起こした。
辺りは、薄い白靄に包まれていた。
視界が極端に悪い。
反射的に、相棒――タンデム・ツインのKRを探したが、すぐそこにあるはずのライムグリーンの車体は見当たらなかった。
俺は視界を確保するために、顎紐を外し、フルフェイスのヘルメットを脱いだ。
靄の切れ間から視界に入ったのは、見覚えのない空だった。
雲が、妙に低い。
世界の屋根の一部を切り取ったような、神々しいほどに切り立った雪山が遠くに座している。
「……なんだ、ここ。千葉の海岸線に、こんな山あったか?」
独り言が、標高のせいかやけに軽く響く。
大気中の湿度が、さっきまで走っていた西湘バイパス付近とは決定的に違う。
周囲を見渡すと、すぐ近くの地面が抉れていた。
溶けたみたいに、ぐにゃりと.
異様な光景に、脳のどこかが警報を鳴らす。
「……何だよ、これ。ガス爆発か何かか? それとも……」
ふと、ネット小説で読み漁った『異世界転生』なんて言葉が頭をよぎる。
だが、俺はすぐに頭を振った。馬鹿馬鹿しい。
ステータスウィンドウが出るわけでも、女神が慈悲深く微笑んでいるわけでもない。
あるのは、ひたすら寒々しい草原と、肺を刺すような冷たい空気だけだ。
「アニメの見すぎだな……。ここはどこだ。国境を越えたのか? いや、小田原からバイクで一瞬で海外なんて、物理的にありえん……」
自身の論理性が、目の前の景色と激しく衝突する。
混乱を鎮めようとしていると、背後でカサリと音がした。
俺は音のした方へと振り返る。
震える声がした。
鳥の囀りのような、あるいは古い弦楽器を鳴らしたような、聞いたこともない音韻。
だというのに、俺の脳はその響きから、なぜか「ありがとう」という明確な意味の輪郭を勝手に抽出して出力していた。
そこに立っていたのは、見覚えのありすぎる顔だった。
「……は?」
思考が、完全に停止する。
なぜ、ここに彼女がいる。
いや、落ち着け. 三上修一、冷静になれ。
彼女――紀子なら、もう俺と同じ五十代だ。
だが、それにしても似すぎている。
若き日の俺が、自身の身勝手から酷い言葉を投げつけて振った「あの日の彼女」そのままだ。
服装もおかしい。
中世の遊牧民のような、見たこともない民族衣装。
「テレビの企画か何かか……? いや、にしては手が込みすぎている」
彼女は俺を見つめている。
恐怖と、安堵と、それから――感謝。
猛獣を退治した伝説の英雄でも見るような目で、祈るように両手を胸の前で組み、再び例の不思議な音を発した。
「……arigato」
……どうやら、感謝されているらしい。
理由は分からないが、茂みの先を見ると、巨大な何かが「消滅」したような跡がある。
事故の衝撃で、たまたま彼女を襲っていた害獣でも追い払ったのだろうか。
「あ、いや……。俺は、三上。……三上修一」
沈黙に耐えかねて、自分の胸を指す。
とにかく、コミュニケーションを確立し、現在地を特定しなければならない。
「ミカミ。シュウイチ」
少女はきょとんとして、俺の言葉をなぞるように口を動かした。
だが、彼女の口から出たのは、俺が発した「音」の不器用な模倣に過ぎないようだった。
「……シュウ?」
「まあ、そんなもんだ。……君は? ここは、どこなんだ?」
彼女は一度頷くと、今度は自分の胸に手を当てた。
「……Aisulu」
ドクン、と心臓が跳ねた。
アイ、スル?
愛する、だと?
彼女はもう一度、今度は少し微笑んで繰り返した。
五十六歳の、円満な家庭を持つ男に向かって、二十代の――俺の娘と同じくらいの年齢の女が、最初に放った音が「愛する」。
もちろん、これは名前だ。
そう自分に言い聞かせても、耳の奥に残った音の響きが、心の奥に沈殿していた「不誠実な自分」を刺激して疼く。
「……落ち着け」
自分への嫌悪を隠すように、俺はN3-Bの大きなポケットからスマホを取り出した。
画面にはアンテナが一本。
その横に、場違いな『3G』の文字が浮かんでいる。
それを見た瞬間、俺は心底安堵した。
「……繋がってる。電波があるってことは、ここは地球だ. 異世界なんて、寝ぼけたことを考えてる場合じゃない」
Googleマップは読み込み中のままだが、電波があるという事実が、俺の「現実」を辛うじて繋ぎ止めていた。
LINEを開き、位置情報を送ろうとするが、画面には『送信できませんでした』の文字。
「……チッ、パケットが死んでるのか。画像も無理だな」
「……それ、なに?」
不意に、横から声がした。
いつの間にか、アイスルーがすぐ近く――顔を寄せるほどの距離に立っていた。
近い。二十代特有の、瑞々しい肌の質感が視界に入る。
「……Aisulu、これ、すき?」
彼女がスマホの液晶を指差して、好奇心に瞳を輝かせる。
まただ。その名前が、どうしても別の意味を持って脳に突き刺さる。
「……勘弁してくれ。俺は、不倫なんて趣味はないんだ」
俺は逃げるようにスマホをポケットにねじ込んだ。
温かな家庭への後ろめたさと、直視できない過去の面影。
俺は彼女の導くまま、夕闇が迫る丘を歩き始めた。
*
丘をひとつ越え、さらに、もうひとつ。
山々の形はどれも見覚えがない。
だが、スマホは微かに『3G』の電波を掴み続けている。
「……はは、笑えるな. 海外赴任にしちゃあ、随分と不便な場所だ」
地図は出ない。GPSも現在地を捉えない。
だが、電波は来ている.
それだけが、俺がまだ「自分の知る世界」の一部にいる証拠だった。
さらに丘を越えた先で、ようやく集落が見えてきた。
土と木でできた素朴な家々が、赤茶けた大地にへばりつくように並んでいる。
視線が、一斉に集まる。
アイスルーが村人に何事かを熱心に説明すると、彼らは俺を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
着古されたN3-Bを纏い、フルフェイスのヘルメットを抱えた、得体の知れない異物。
「……まずいな。歓迎ムードじゃない。大使館はどこだ……なんて言っても無駄か」
そう思いかけた、そのときだった。
ピコン。
静寂を切り裂く、短い電子音。
村の空気が、一瞬で凍った。
「……今のは、何だ!」
言葉は分からないが、長老らしき男が、低く鋭い声を出し、腰の得物に手をかけたのが分かった。
俺は――何の疑問も持たなかった。
むしろ、その音を聞いた瞬間に全身の力が抜けるほどの安督を感じていた。
ああ。繋がっている。
ここは間違いなく、俺のいた世界の一部だ。
3G、アンテナ一本。
ピコン。
二回目の通知。
液晶がまばゆく光り、ロック画面に馴染みのある文字が浮かび上がる.
新着メッセージ:妻
一瞬、息が止まった。
それは、圧倒的な安督だった。
理沙だ。いつもの日常が、俺を呼んでいる。
ここが地球の裏側であろうと、スマホが鳴るなら俺はまだ、自分の知る世界に踏みとどまっている。
だから俺は、村人たちの殺気にも気づかずに、救いを見つけた子供のように、ただスマホの画面を見つめていた。
同時に、誰かが叫んだ。
「――悪魔の道具だ!」
農具の切っ先が、俺に向けられる。
文明の利器という「救い」が、この場所では「呪い」として扱われる。
俺はスマホを握りしめたまま、その温度差に動けなくなった。
(第1話・了)




