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スマホを持って異世界転移したら、電波が悪くてギリWikiしか使えません。 ~56歳の元オタク、元カノ激似の女の子と生活改善~  作者: サンドマスター


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アイ、スル

対向車のハイビームが、視界を真っ白に焼き尽くした 。


――眩しい 。


反射的にセパレートハンドルを絞り込む 。


その瞬間、愛車・KR250Sのフロントが跳ねた 。


二十代の頃から身体の一部だったアスファルトのざらついた感触が、ふっと消える 。


浮いた、と思った。 いや、世界から放り出されたのだ 。


世界が横倒しになり、スローモーションの中でカストロールの中毒性のある甘い匂いが鼻をかすめる。


次の瞬間、身体は冷たい草の上を滑っていた 。


   *


衝撃。 鈍い音 。


叩きつけられた地面は、記憶にある日本の土よりも、ずっと柔らかかった 。


何度も転がり、やがて慣性に抗えなくなった身体が止まる 。


「……っ、生きてる、か?」


ヘルメットの中で、自分の荒い息がうるさいほど反響している 。


痛みはまだない。 アドレナリンが切れた頃に、地獄のような痺れがやってくるはずだ 。


厚手のN3-Bがクッションになったのか、骨が折れた感覚はない。 ゆっくりと四肢の無事を確認し、泥の匂いを吸い込みながら身体を起こした 。


視界に入ったのは、見覚えのない空だった 。


雲が、妙に低い。 天山山脈を思わせる、神々しいほどに切り立った雪山が遠くに座している 。


「……なんだ、ここ。千葉にこんな山、あったか?」


独り言が、やけに軽い。 大気中の湿度が、さっきまで走っていた海岸線とは決定的に違う 。


反射的に、相棒――タンデム・ツインのKRを探した 。


だが、少し離れた場所にあったはずの、あのライムグリーンの車体は見当たらない 。


代わりに、地面が抉れていた 。


溶けたみたいに、ぐにゃりと 。


焼けたとも違う、理屈を超えた物理法則が無理やり地面をねじ曲げたような異様な光景。


「……何だよ、これ」


近づこうとして、ふと気づく。 ヘルメット越しでは距離感が狂う 。


顎紐を外し、ヘルメットを脱いだ、その瞬間だった 。


「……arigato」


背後から、震える声がした 。


一瞬、意味が分からなかった 。


音ははっきり日本語のはずなのに、響きだけがこの世のものとは思えないほど透き通っている 。


――ありがとう?


何がだ。 俺はただ、操作を誤って事故っただけだ 。


反射的に振り向く 。


そこに立っていたのは―― 見覚えのありすぎる顔だった 。


「……は?」


思考が、完全に停止する 。


なぜ、ここに彼女がいる。


いや、落ち着け。 彼女なら、もう俺と同じ五十代だ 。


娘か? だが、それにしても似すぎている 。


若き日の俺が、自身の身勝手から酷い言葉を投げつけて振った「あの日の彼女」そのままだ。


服装もおかしい。 時代劇ともファンタジーともつかない、中世の遊牧民のような見慣れない民族衣装 。


だが、顔だけが記憶と重なりすぎていた 。


彼女は俺を見つめている 。


恐怖と、安堵と、そして――感謝 。


猛獣を退治した伝説の英雄でも見るような目で、祈るように両手を胸の前で組み、もう一度言った 。


「……arigato」


……どうやら、感謝されているらしい 。 理由は分からないが、敵意がないことだけは分かる 。


俺は一度だけ、茂みの先を振り返った。


背の丈ほどもある深い草むらが、何か巨大なものが突き抜けたようになぎ倒され、激しく揺れている 。


だが、今の俺にそこを確認しにいく余裕はなかった。


「あ、いや……。俺は、三上。……三上修一」


沈黙に耐えかねて、自分の胸を指す。


「ミカミ。シュウイチ」


少女はきょとんとして、俺の言葉をなぞるように口を動かした。


「……シュウ?」


「まあ、そんなもんだ」


彼女の発音はどこか幼く、そして不気味なほど甘い。


彼女は一度頷くと、今度は自分の胸に手を当てた 。


「……Aisuluアイスルー


ドクン、と心臓が跳ねた 。


アイ、スル?


愛する、だと?


彼女はもう一度、今度は少し微笑んで繰り返した 。


聞き間違いじゃない。 確かにそう聞こえる 。


五十六歳の、円満な家庭を持つ男に向かって、少女が最初に放った名前が「愛する」。


もちろん、これは名前だ。 彼女の国の言葉なんだろう 。


そう自分に言い聞かせても、耳の奥に残った音の響きが、心の奥に潜んでいた「悪い虫」を刺激して疼く 。


「いやいや、何考えてんだ俺」


五十六だぞ。


状況は説明不能の遭難。


相手は言葉も通じない、娘やぞ 。


幸せな家庭がある身で、何を一瞬でも浮ついている。


自分への嫌悪を隠すように、俺はN3-Bの大きなポケットからスマホを取り出した。


画面にはアンテナが一本。 その横に、場違いな『3G』の文字が浮かんでいる 。


現在地を送ろうと指を動かすが、Googleマップは読み込み中の円がくるくる回るばかりで、現在地も白紙のままだ 。


LINEを開き、位置情報を送ろうとするが、画面には『送信できませんでした』の非情な文字 。


「……チッ、やっぱりダメか。画像も無理だな」


「……それ、なに?」


不意に、横から声がした 。


いつの間にか、アイスルーがすぐ近く――顔を寄せるほどの距離に立っていた 。


近い。 近すぎる 。


「……Aisulu、これ、すき?」


彼女がスマホの液晶を指差して、好奇心に瞳を輝かせる 。


まただ。 その名前が、どうしても別の意味を持って脳に突き刺さる 。


彼女は俺の葛藤など知らず、無邪気に画面の光を覗き込んでいる 。


鼻をくすぐる、草と風の匂い 。


「……勘弁してくれ」


俺は逃げるようにスマホをポケットにねじ込んだ 。


温かな家庭への後ろめたさと、直視できない過去の面影。


それらが混ざり合った「アイ、スル」という音を連れて、俺は彼女の導くまま、夕闇が迫る丘を歩き始めた 。


   *


丘をひとつ越え、さらに、もうひとつ 。


山々の形はどれも見覚えがない 。


だが、スマホは微かに『3G』の電波を掴んでいる 。


「……はは」


乾いた笑いが漏れた。


地図は出ない。GPSも現在地を捉えない 。 だが、電波は来ている 。


「山奥か……あるいは、海外のどこかか」


そう自分に言い聞かせることで、頭の奥で芽生えかけた「非現実的な可能性」を無理やり押し込める 。


ここは地球だ。 言葉は通じないが、人だっている。 文明は、まだ俺を見捨てていない。


さらに丘を越えた先で、ようやく集落が見えてきた 。


土と木でできた素朴な家々が、赤茶けた大地にへばりつくように並んでいる 。 視線が、一斉に集まる 。


彼女が何事かを熱心に説明すると、村人たちは俺を見て、怪訝そうに眉をひそめた 。


着古されたN3-Bを纏った、得体の知れない異物。 平和な村に現れた、場違いなおじさん 。


……まずいな。


そう思いかけた、そのときだった。


ピコン。


静寂を切り裂く、短い電子音 。


村の空気が、一瞬で凍った 。


「……今のは、何だ?」


長老らしき男が、低く鋭い声を出す 。


俺は――何の疑問も持たなかった。 むしろ、その音を聞いた瞬間に全身の力が抜けるほどの安堵を感じていた。


ああ。 繋がっている。


俺は夢中でポケットに手を伸ばした 。


3G、アンテナ一本 。 極端に細いが、世界はまだ繋がっている。 だから、鳴る 。


スマホを取り出す 。


ピコン。


二回目の通知 。 液晶がまばゆく光り、ロック画面に馴染みのある文字が浮かび上がる 。



新着メッセージ:妻


一瞬、息が止まった 。


それは、驚きと――圧倒的な安堵だった。


妻だ。 いつもの日常だ 。


逃げ出したかったわけでも、愛していないわけでもない。 ただ少し、現実を忘れて走りたかっただけの夜。


その「現実」からの呼び声が、今は俺の命綱に見えた。 ここがどこであろうと、スマホが鳴るなら俺はまだ、自分の知る世界に踏みとどまっている。


だから俺は、村人たちの殺気にも気づかずに、 救いを見つけた子供のように、ただスマホの画面を見つめていた。


同時に、誰かが叫んだ 。


「――悪魔の道具だ!」


農具の切っ先が、俺に向けられる 。


目の前には、理解不能なまでの激しい敵意 。 手の中には、温かく、確かな日本の現実 。


俺はスマホを握りしめたまま、その温度差に動けなくなった 。


(第1話・了)

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