第0話:プロローグ
仕事を終えて、家に帰る。
それが一日の区切りだった。
食卓には、いつもの料理。
家族と向かい合い、当たり障りのない会話を交わす。
笑う。
相槌を打つ。
問題なく、日常は流れていく。
布団に入る時間になると、俺は自分の部屋へ向かう。
妻とは、もう何年も別々に寝ていた。
いつからだっただろう。
眠る前に思い浮かべる顔が、妻ではなくなったのは。
二十代の頃に付き合っていた、昔の彼女。
結婚を考えていた相手だった。
別れを告げたのは、俺のほうだ。
本意ではなかった。
迷いと、不安と、逃げ。
真正面から向き合う勇気がなくて、
わざと彼女を傷つける言葉を選んだ。
嫌われてしまえば、楽になれると思った。
最低なやり方だった。
今でも、後悔している。
三十代の頃、街角で不意に声をかけられたことがある。
振り返ると、そこには変わらない笑顔があった。
ほんの短い立ち話。
近況を少し交わして、それだけで終わった。
連絡先を交換することもなく、
引き留めることもなく。
そのまま、別れた。
それ以来、彼女に会うことはない。
それなのに――
気がつくと、そんなことを思い出している自分がいる。
妻に対する申し訳なさを、
強く感じきれない自分。
その事実に気づいて、
嫌悪と自己正当化が、胸の奥で絡み合う。
自分は誠実な人間だと、まだ思っていたい。
だからこそ、こんな自分を、どこかで軽蔑している。
偽善者だ。
考えたくなくて、布団を抜け出す。
ガレージへ降り、カバーを剥ぐ。
KAWASAKI KR250S。
今の時代には、もう流行らない2ストロークのバイクだ。
チョークを引き、キックペダルを踏み込む。
一度、二度。
乾いた音だけが返ってくる。
三度目で、ようやく火が入った。
前後に並んだ二つのシリンダーが、少しばらついた鼓動を刻み始める。
……いつもより、目覚めが鈍い。
エンジンが温まるにつれて、
白い煙と一緒に、カストロールの甘い匂いが立ち上る。
ヘルメットの中にまで満ちてくる、いつもの匂いだ。
この瞬間だけが、
俺を「夫」でも「父親」でもない、ただの個体に戻してくれる。
ギアを入れ、ゆっくりと走り出す。
夜の住宅街を抜ける。
信号、横断歩道、コンビニの光。
生活の匂いが、後ろへ流れていく。
やがて道が開け、潮の気配が濃くなる。
いつも流して走っている海岸線。
街灯の間隔が広がり、暗闇が大きくなる。
海は見えない。
だが、波の音だけは届く。
アクセルを開ける。
2ストの甲高い音が伸び、パワーバンドに乗りかける――
その瞬間、ふっと力が抜けた。
回転が落ちる。
息をついたみたいに、エンジンが一拍遅れる。
「……なんだよ」
アクセルを開け直す。
戻る。
けれど、また同じところで、わずかに躓く。
キャブか。
吸ってないのか。
それとも、どこかで薄いのか。
そう考えたところで、答えは出ない。
工具も、時間も、今はない。
――まあいい。走れないほどじゃない。
そう自分に言い聞かせて、
俺は同じ速度で海岸線を流し続けた。
ヘルメットの中は静かだ。
風切り音と、エンジン音と、自分の呼吸だけ。
その隙間に、余計なことが入り込む。
妻の顔。
法事だ、学校だ、修理だ、金だ。
いつも「決めるべきこと」が、そこにある。
あの頃の彼女の顔。
笑っていた。
怒っていた。
最後は、泣いていた。
俺は何を守ってきたんだろう。
何から逃げてきたんだろう。
考えたくない。
でも、止められない。
こういう時だけ、
自分の中の汚い部分が、妙に饒舌になる。
「今さら何を後悔してる」
「被害者面か」
「誠実? どこがだ」
誰の声でもない。
ただ、自分の声だ。
気づけば、海岸線の終わりが近づいていた。
行き止まりではない。
ただ、いつもの折り返し地点。
そこで引き返す。
帰る。
家へ戻る。
――戻る。
その言葉が、喉の奥で引っかかった。
俺はゆっくりとウインカーを出し、
同じ道を、逆向きに走り始めた。
さっきまで追い風だった風が、今度は正面から当たる。
速度は同じでも、体感が重い。
街の灯りが近づいてくる。
コンビニの光。
交差点。
信号。
黄色。
止まるべきか。
進むべきか。
減速すれば、安全に止まれる距離だった。
だが、俺の手は無意識にアクセルを煽っていた。
さっきまでの思考を、
風で消してしまいたかったのかもしれない。
黄色い光が、視界いっぱいに滲む。
その瞬間、ポケットの中で、何かが震えた。
一拍遅れて、後輪が不自然に噛む。
車体が流れる。
景色が横倒しになる。
アスファルトが迫ってくる恐怖の中で、
俺はなぜか、あの時の彼女の笑顔を思い出していた。
衝撃は、来なかった。
代わりに、
世界が裏返るような浮遊感だけが、
俺を包み込んだ。




