茶話・燃ゆるは二片
ひんやりとした夜風に当たりながら、サクラは「はぁ⋯⋯」と息を吐いた。
今日はずっと、頭が真っ白だった気がする。
サクラは庭園の片隅へと目を向けた。
数時間前にお茶会が行われていた場所だ。白い柱と屋根の四阿。
穏やかに過ごしていたあの人の、名残が感じられるような気がした。
「ライト様⋯⋯」
サクラはそっとまぶたを閉じて、お茶の時間を思い出す。
ライトは、ノクタリオに招待されたホタルに付き添う形で、この庭園を訪れていた。
研究所での一件で、サクラが彼に怪我をさせてしまったことなど、まるで気にしていない様子で⋯⋯。
キュマイラの爪にも臆すること無く、友人とただ会ったかのように、ライトは笑いかけてくれた。
「あの⋯⋯、ライト様⋯⋯。研究所では、わたし、ライト様に怪我をさせてしまって⋯⋯。
本当に、申し訳ありませんでした⋯⋯」
「いいよ、別に。妖精探しの邪魔になる傷じゃなかったし」
「⋯⋯許して、いただけるのですか⋯⋯?」
「ああ。許す。仲直りしたいなら、それもする。
だから、この話はもう蒸し返すな」
ライトがサクラの顔を見上げる。
サクラにとって、彼の言葉がどんなに嬉しいものだったのか。
きっとライトには、わからないだろう。
サクラは頬を淡く染めながら、彼のことを見下ろした。
キュマイラに合成されてしまったせいで、遥か下方にある頭。
思っていたよりも小柄なライトを見ていると、獅子の前肢が疼く。
ネズミを追い回すように、彼を踏みつけて捕らえたい。
ふと湧き上がった衝動に、サクラは気づいてぞっとした。
──この小さな生き物を、食べてしまいたい。
人間だった頃には絶対に浮かばないような考えが頭の中にある。
これじゃあ、わたし、本当に化け物だ。
また彼のことを傷つけて、今度こそ本当に嫌われてしまう。
サクラの背中に冷や汗が流れた。
「ノクタリオ様⋯⋯! お客様は、どちらへご案内すれば⋯⋯!?」
サクラはキュマイラとしての狩猟本能を隠しながら、ノクタリオに問いかける。
「案内はワタクシが致しますわ。貴女もついていらっしゃい」
ノクタリオは高貴な笑みを浮かべながら、お客様を四阿へと向かわせ始めた。
サクラとしては、今すぐにライトのそばから離れたかったが、雇い主にこう言われては仕方が無い。
サクラは足元に注意しながら、お茶会の会場へ歩いていった。
三人はそれぞれの席に着き、サクラはノクタリオの背後に控える。
魔法のティーポットがふわりと浮かんで、自動的に四人分のお茶が注がれた。
「リオ。これって何のお茶?」
「異大陸から取り寄せたルフネスですわ。
そちらのケーキは、マダム・ミュールの特製チーズを贅沢に使用した一品ですの!」
「なんでそんな自慢気なの?」
「どちらも高級品だからですわよ! もうっ、これだから魔界に疎すぎる人間は!
こんなものを出されたら、ワタクシの調達能力に敬服するのがマナーですのよ!」
「ふふふ。相変わらず優秀な悪魔だね、ノクタリオは」
三人が楽しげに話す隣で、サクラは黙ってテーブルを見ていた。
ライトのほうを見てしまったら、またあの衝動が起きそうな気がして、怖かった。
焼き目の綺麗なケーキに焦点を合わせていると、誰かの手が皿を指差した。
「ホタルさん、これ、浮かせられますか?」
ライトが言う。
熱心にケーキを見つめる姿を、食べたいけれど困っている、と解釈されてしまったらしい。
ホタルが「勿論」と頷いて、ふわりとケーキが宙に浮かんだ。
「ほら、サクラ。あーん」
ライトが満面の笑みで見上げる。
サクラは不意の優しさに戸惑いながらも、口元に運ばれたケーキをかじった。
「あ、あーん⋯⋯」
濃厚なチーズの味わいに、ほのかなオレンジの香り。
しっとりと柔らかなケーキの生地が、溶けるように口の中へと消えていく。
美味しい、けれど、恥ずかしい。
彼はわたしを、悪く思っていないだろうか。
食いしん坊でみっともないとか、自分からは頼まずに気遣いを強要しただとか──。
サクラはおずおずとライトを見遣った。
「ありがとうございます、ホタルさん」
「このくらい、どうってことないよ。いつでも私を頼りにしてくれていいからね」
ライトはホタルと目を合わせ、お互いに微笑み合っている。
⋯⋯テーブルに置かれたカンテラの火が、威嚇するように揺れていた。
魔除けの魔法。森で護衛を頼んだ時に、感じた魔力の波動と同じ。
強固な結界が張られているノクタリオの庭園で、ホタルがそれを使う必要はまるで無い。
ホタルは明らかに、人外となったサクラへの警戒心を露わにしていた。
まるで、子供を不審者の魔の手から守ろうとする親のようだ。
きっと彼女は、サクラが抱いた欲求を見透かしているに違いない。
──もしも、わたしがまた暴れても、ホタル様ならライト様を守ってくださる。
ホタルからの警戒心に、サクラはむしろ安心していた。
それでいい。貴女は、わたしを人間だなんて思わなくていい。
わたしには、自分のこの恐ろしい衝動を、制御しきる自信がまだ無い。
⋯⋯ホタルの青白い炎を見ていると、不思議と心が穏やかになった。
お茶会が、和やかに進んでいく。
優雅に紅茶を飲んでいたノクタリオが、ライトに呼び掛けた。
「そう言えば、貴方。どういう契約で雇われていますの?」
「成功報酬でエタノーラ金貨500枚」
「見たところ、魔界に住み込みですわよね? 衣食住は当然ホタルが保証するとして、娯楽費などはどうなってますの?」
ノクタリオの質問に、ライトは不可解そうな表情を浮かべた。
「それを聞いてどうするんだよ。
というか、そういうのホタルさんから直接聞けばいいだろ⋯⋯」
「ホタルとはもっと有意義なお話をしますから、心配なさらずとも良いんですのよ?
⋯⋯それで、娯楽費はどうなのです?」
「週に一度、雑費とまとめて魔貨を幾らか貰ってる」
ライトは渋々、質問に答えた。
なんか今日はやけに話しかけてくるよなぁ、とぼやきながら、彼はケーキを口に放り込む。
サクラは町中で買い物をするライトの姿を想像してみた。
無駄は嫌いそうだから、必要なものを手早く買って、さっさと家に帰っていそうだ。
「ライト様は⋯⋯、趣味のための買い物などは、なさるのですか⋯⋯?」
サクラは問い掛けた。もう少し、彼のことが知りたい。
ライトは少し考えてから、答えてくれた。
「趣味とは少し違うかもしれないけど⋯⋯。最近、魔石作りに使うザルを買ったよ」
魔石用のザルは、素材に周囲の魔力を吸わせる魔法が掛かっている道具だ。
人間界では、魔石を作れるほどに魔力の濃い場所が限られているため、ほとんど流通していない。
ライトは野菜を干すようなジェスチャーを交えながら、言葉を続ける。
「こう、魔力が吹き出る木の枝に吊るして、石を魔力干しにするんだ。
複属性だから使い道があんまり無いけど、見た目は綺麗だよ」
ライトがお手製の魔石が入っている瓶をリュックから取り出す。
赤みがかった紫色で、どことなくプラムを連想させる。
夕暮れ時の、紫宵の空だ。
ライトは一粒手に乗せて、サクラのほうへと差し出した。
「サクラにも、あげるよ」
紅茶の入ったカップの隣に、魔石が置かれる。
想像もしていなかったプレゼントを、サクラははにかんで受け取った。
「⋯⋯ありがとうございます、ライト様⋯⋯」
「どういたしまして」
ライトもサクラに笑みを返す。
冒険中の厳しい眼差しとはまるで異なる、穏やかな表情。
サクラの胸が、またときめいた。
⋯⋯本当に、今日は素敵な日だった。
サクラは彼の笑顔を思い返しながら、無人の四阿を見遣る。
いつか、もっと親密な関係になれたなら、その横を一緒に歩けるのだろうか。
町で一緒に買い物をしたり、綺麗な夕焼けを眺めたり──。
そんな幸福を想像し、サクラは頬が熱くなった。
「⋯⋯次は、わたしから、会いに行こうかな⋯⋯」
彼のことを考えていると、胸がドキドキと高鳴る。
未だに燻る欲望と、恋心の熱を感じながら、サクラは満天の星空を見上げた。
【茶話・終】