第16話:Sleepy Sheep
浴室にて、ライトは冷たいシャワーを浴びていた。
宿の客室ひとつひとつにシャワーと浴槽がついているなんて、魔界ならではだ。
人間界だと、水を幾らでも出せる魔道具は高価で、手入れも難しいため、大抵の場合は大浴場で一括管理だ。
「使い方も、防水加工の紙に全部書いてあるし⋯⋯。
魔界の宿って、やっぱり凄いなぁ⋯⋯」
ライトは呟きながら、浴室を出た。
備えつけの柔らかいタオルで体を拭いて、新品のシャツとズボンを身につける。
アラクネの服屋で買ったものだ。
ちなみに、買いたての服は、埃や糊を落とすために一度洗ってから着たほうが良い、といった話もある。
しかし、ライトには浄化の魔法があるので洗濯は不要だ。毒や呪いの類いで無ければ簡単に落とせる。
「お腹が空いたな。そう言えば、まだ晩ご飯食べてなかったっけ⋯⋯」
ライトはリュックを片手にベッドルームへと戻る。
室内にホタルの姿は無く、ベッドサイドのメモ帳に「夕飯を買ってくるよ」と丸っこい字で書かれていた。
書き手を示すサインの横に、火の玉の絵も描いてある。
ホタルさん、何を買ってくるのだろう。
ライトは少しワクワクしながら、彼女が帰ってくるのを待った。
チクタクと時計の針が回っている。
⋯⋯ホタルは、なかなか帰ってこない。
ライトは窓の外を見た。この部屋は三階で、目の前には別の建物の壁がある。
知らぬ間に雪でも降っていたのか、街灯に照らされた道は白く染まっていた。
「⋯⋯あれ?」
ライトは違和感に首を傾げる。
路面は白い何かで覆われているが、窓枠や街灯の頭には何も付着していない。
雪が降っていたのならば、もっと全体的に白くなる筈だ。
なんとなく、嫌な予感がした。
ライトは冒険用の装備を手早く身につけ、部屋の外に出る。
廊下には、従業員の姿は無い。
エレベーターでフロントに降りると、そこにも誰も、いなかった。
「⋯⋯ホタルさん⋯⋯?」
ライトは、ホテルの外へと踏み出す。
辺りは暗く夜に沈んで、冷えた空気を建物の光がぽつぽつ照らしていた。
路面を覆っているものは、柔らかくモコモコとした質感をしていた。
波の花という、割れにくい泡の山が海辺に出来る自然現象があるが、この光景はそれに似ているかもしれない。
だだし、この白い物体は、泡と言うよりは綿だった。
「⋯⋯端から端まで真っ白だ。かなり大規模な魔法だな」
ライトは偵察術を起動してみる。
街中では魔道具によるノイズが多すぎて、よくわからない。
昼間に猫を探していた時は、ここまで曖昧ではなかった筈だが、この綿そのものに探知妨害の効果でもついているのだろうか。
詳細までは掴めなかったが、これが危険物では無いことは、なんとかわかった。
「ホタルさんが心配だな⋯⋯」
ライトは短剣の柄に手を触れながら、綿だらけの道へと足を進めた。
明らかに、これは異常事態だ。早く彼女と合流したい。
ライトのブーツが、綿を掻き分けて進んでいく。
町の中には通行人の姿が見えず、どこまで行ってもシンと静まり返っていた。
建物に明かりは点いているが、窓から店内を覗いてみても、誰もいない。
ホタルの姿も、見つからない。
「⋯⋯どこまで買い物に行ったんだろう⋯⋯」
ライトは段々と、不安になってきた。
どこまで行っても、見えるのは芥子色の煉瓦の建物と、綿に覆われた道だけだ。
青白く燃える炎は、見えない。
「⋯⋯ホタルさん⋯⋯」
ライトは呟くような小さな声で、彼女を呼んだ。
今の自分は、まるで迷子になってしまった子供のようだ。
心の中が暗く沈んで、不安の海が広がっている。
ひとりぼっちが怖くて、悲しくて、あの人に会いたいと泣きそうだ。
自分でもおかしいと思うくらいに、寂しくて堪らない。
「寂しいのなら、私がキミを抱き締めてあげるよ」
穏やかに、笑うような声がした。
いつの間にそこに現れたのか、魔法使いの女性がライトの眼前に立っていた。
夜の闇を思わせる、漆黒の三角帽子とマント。
白い髪は柔らかなウェーブを描いて、ふわりと広がる。
頭の両脇には、ぐるりと巻いた山羊の角が突き出して、その下に細長い獣の耳が生えている。
マントの裾から伸びた脚部は、獣人と同じだ。人とは違う骨格と、白い毛皮に大きな蹄。
──夢魔の一種、ポベートールだ。
ライトが聞いたことのある話では、眠っている人間に悪夢を見せて、魔力を絞り取るとされている悪魔。
ライトは苦い顔になる。
この異様な街並みは、夢魔によって作られた夢の世界だったのだろう。
現実の自分は、ホタルの帰りを待つうちに眠り、コイツに襲われてしまったのだ。
「ホタルさんから貰った魔除けもあったのに⋯⋯!」
ライトは短剣の柄を握り締めた。
魔除けのお守りを無視して襲撃してきたということは、この夢魔はかなり強力な筈だ。
夢魔は恍惚とした表情で、ライトの顔を見つめてくる。
「ふふふ。どうした? 寂しいんだろう?
抱き締めてあげるから、おいで。
普段は町中で狩りなどしないが、キミはとても美味そうだったから、特別だ」
両手を広げて、夢魔が誘う。
ライトの視線に、嫌悪が浮かんだ。
好みの魔力属性だったから襲った、などと言われても迷惑でしかない。
ライトは短剣を引き抜いて、きっぱりと拒絶の意を示す。
「⋯⋯退治されたくなかったら、今すぐボクの夢から出ていけ」
「ふふふ。威勢が良いな、少年。
だが、キミは戦闘が苦手だろう?
でなければ、迷い子のような顔で町を彷徨ったりはしない。
保護者を求めて泣き出す子供の悪夢というのは、私の一番の好物だ」
夢魔が舌舐りをする。
子供だと誤解されるのは、ライトにとってはよくあることだが、今回ばかりは癪に障った。
この悪魔のせいで、こんなつまらない夢を見る羽目になったのだ。
妖精もいない暗い町中を、ひとりで歩き回るという夢を。
全く以て、腹立たしい。
さっさと倒して、ホタルと晩ご飯を食べよう。
ライトは短剣を握り締め、夢魔の心臓に狙いを定めた。
夢魔との戦いは精神戦。夢の中では、自己認識がそのまま個人の実力となる。
目の前の悪魔を、どれほど矮小な弱者だと思い込めるかが勝利の鍵だ。
ライトは無言で走り出し、夢魔の胸元に刃を突き出す。
人間ならば致命の一撃。悪魔でも、ただでは済まないだろう。ライトはそう思い込む。
ライトは柄を握る手を捻りながら短剣を抜いた。
攻撃を受けた夢魔の胸部が、魔力の塵となって崩れる。
ライトは敵の体を蹴飛ばして下がり、次撃の体勢を素早く整えた。
「ほう、キミは夢魔との戦い方を知っているのか。
そんな小枝一本で、勝てると信じ込めるとはな⋯⋯!」
夢魔が興味深そうに笑った。
まるで攻撃が効いていないかのように、尊大な態度を取ってはいるが、それに気圧されたら負ける。
ライトは、冷静な戦況分析を頭の中から追い出して、短剣で斬りつけることだけを意識した。
シングルタスクの脳内は、こういう時には役に立つ。
常識的に考えるのなら、ライトが単騎で悪魔を打ち滅ぼすなんていうのは、絶対に無理だ。
しかし、そんな細かな思考は、戦闘に集中しきっているライトの頭には浮かばない。
二撃目が悪魔の左腕を斬り落とす。
「⋯⋯ふむ。なかなかの胆力だ。
何がキミを、そうさせるのかな?」
夢魔の問いに、ライトは答えない。
妖精を探している時のように、目の前の目的だけを見る。
ライトの振り抜いた銀刃が、夜闇を裂いた。
夢魔は、すんでのところで身を躱す。
ライトは迷わず、追撃を仕掛けた。避けられたのなら、間髪を入れずに次の一撃。
デタラメで、ガムシャラで、粗も多いが、夢の中から夢魔を追い出すにはただひとつ、折れない戦意があればいい。
夢魔の表情が少しずつ余裕を無くしていく。
ライトの攻撃を避けきれず、微細な切り傷が増えていく。
そしてついに、ライトが振り抜いた短剣が、夢魔の右腕を斬り落とした。
「はは⋯⋯っ! なかなか、やるじゃないか!
けどね、ここは夢の世界だ。上級夢魔の私には、人間のキミでは勝てないよ」
片腕を失っても、夢魔は不敵に微笑んでいる。
ライトは何を言われても一切気に留めず聞き流し、短剣を握って突進を仕掛けた。
夢魔の腹部に攻撃が当たる。
──その瞬間。
夢魔の肉体が綿になり、ふわりと宙に広がった。
囮だ。やられた。ずっと偽物と戦わされていた。
敵を見失ったライトの背後から、夢魔の腕が伸びてくる。
夢魔が、ライトを抱き締める。
「しまっ⋯⋯!」
「はい、ぎゅうぅー」
柔らかな羊毛の感触がライトの体を包み込んだ。
魔力を吸われて、ぐらりと脳内が眩む。
優しく、あたたかで、穏やかな羊毛がライトを眠りに誘っていく。
ここは既に夢の中なのに、意識がどんどん重くなる。
まぶたを開けているのも、だんだん、つらくなる⋯⋯。
「さあ、少年。私の腕に抱かれて、お眠り」
「い、いやだ⋯⋯! ボクは、こんなとこから帰って⋯⋯、ホタルさんと⋯⋯」
ライトは必死に頭を振って抵抗する。
夢魔はくすくすと笑っていた。
「ホタルさん、か⋯⋯。それはあの、龍燈のような女だろう?
キミのことを、まるで可愛いペットのような目で見つめている⋯⋯」
「⋯⋯ペット⋯⋯? 違う、ホタルさんは⋯⋯」
「彼女は、悪魔だ。キミだってわかってるんだろう?
そのうち飽きられて、捨てられる。悪魔というのは、そういうものだ。
気まぐれに愛して、気まぐれに捨てる」
夢魔は洗脳を刷り込むように、穏やかな声でライトに囁く。
眠気で頭が回らなくなっているライトには、彼女の言葉が深く響いた。
ホタルさんが、ボクを、捨てる⋯⋯。
ぼんやりとした思考の中で、そんなことない、とライトは呟く。
夢魔はライトの考えを塗り潰すように、更に言葉を重ねてきた。
「それは、キミの願望だ。けれど、キミは知っている。
願いは叶わないものだ。キミの願いは、叶わない。
あの人はいずれ、キミを捨てるよ。キミは、ひとりぼっちになるんだ」
ライトはただ、夢魔の言葉を聞くしか出来ない。
眠気で何も考えられない。
「ひとりぼっちは、嫌だろう?
だから、ほら、私を頼って⋯⋯。
抱き締められている気持ちの良さに、体を委ねて⋯⋯」
夢魔はまるで聖母のような笑みを浮かべて、ライトの瞳を手のひらで覆った。
眠気がまた深まって、あくびがしたくなってくる。
夢魔の力に、抗えない。
敵の強さを実感したら、夢の中では絶対に勝てなくなってしまうのに。
ライトの全身が気怠くなって、柔らかな羊毛に受け止められる。
握り締めていた武器が、指の隙間から滑り落ちた。
敵意が鳴りを潜めて、微睡む。
心が完全に屈してしまう。
だらりと垂れ下がったライトの腕が、腰に吊るされた木片に触れた。
ホタルに貰ったお守りに嵌め込まれていた石が、熱い。
穏やかに包み込んでくる羊毛の温かさとは、まるで異なる。
ライトはぎゅっとお守りを握って、彼女の名前を呟いた。
「ホタルさん⋯⋯。ボクは、ホタルさんが⋯⋯」
「どんなに望んでも、無理なものは、絶対に無理。
彼女とはもう、共にいられない⋯⋯。
憐れな子羊⋯⋯、キミは私を頼るしかないのさ⋯⋯」
「⋯⋯それでも、ボクは⋯⋯。
ボクは、ホタルさんじゃなきゃ、いやだ」
ライトはお守りを握った拳を静かに持ち上げた。
ホタルさんのところへ、行きたい。
こんなところで、道に迷ってなんかいられない。
心の中が、そんな想いでいっぱいだった。
ライトの感情に呼応するように、木片の魔法石が、青白く輝く。
これは、ホタルがくれたもの。
彼女との繋がりを示すもの。
ホタルの魔力が込められている石ならば、簡易魔術のロジックで、彼女と同じ魔法が使える。
⋯⋯そうあるべきだと、ライトは信じた。
ホタルのところへ帰れるならば、それ以外はどうだっていい。
荒唐無稽だと判ずる理性も、不可能な儀式だと断ずる常識も、今のライトの頭には無かった。
夢の中では、強く信じることさえできれば、それが唯一の現実だ。
「──小石は夜に光を放ち、帰り道を指し示す。
迷いを払いし月光の神よ、我に加護を与えたまえ⋯⋯!」
ライトは木片を天に掲げて、聖句を唱えた。
あまりにも方向音痴な息子を見かねて、父が教えてくれた呪文。
適性が無くて、一度も発動しなかった、空間転移の大魔法。
それが今、夢の世界の奇跡を借りて、起動する。
ホタルの魔力を宿した石に、青白い怪火が燃え上がる。
炎の渦が、ライトの体に纏わりついた綿を、真っ黒な炭の欠片に変えていった。
「熱っ! な、なんだい、これは⋯⋯!
こんな、こんなにも、盲目的な意志の形は⋯⋯!
まさかキミ、心の底から、あの女に夢中だったとでも言うのか⋯⋯!?」
夢魔が悔しそうに叫ぶ。
しかし、ライトにはどうでもよかった。
ホタルのところへ帰る以上に、大事なことは何も無い。
青白い炎がライトを包んで、彼女の元へと転移させる。
ライトの意識が夢の中から消えたことで、無人の街並みも消えていく。
夢魔はマントの焦げ跡を握り、屈辱に顔を歪ませながら、闇の中へと溶けていく小さな世界から逃げ出した。
現実に意識が戻ったライトは、ゆっくりとそのまぶたを開ける。
体はホテルのベッドの上だ。
悪夢を見せられてしまったせいで、じっとりと肌が汗ばんでいる。
せっかくシャワーを浴びたというのに、台無しだ。
ライトは溜め息を吐いた。
ベッドから体を起き上がらせて、周囲を見回す。
「⋯⋯ホタルさん、まだ帰ってきてないみたいだ」
ぐう、とライトの腹が鳴る。
人間はごはんを食べないといけないのに、いつになったら戻るのだろう。
「まだまだ時間が掛かるなら、シャワーを浴び直してこようかな⋯⋯」
ライトはベッドサイドのテーブルに置いていたリュックに手を伸ばした。
隣に置いてあった短剣に、リュックの角が当たって落ちる。
木材の床で、ガランガラン、と悲鳴が上がった。
ライトは少し面倒そうな顔をして、短剣を拾うためベッドを降りた。
短剣に手を伸ばすと、巻き込まれて床に落ちていた小さなお守りが目に入る。
「⋯⋯お風呂から上がっても帰ってなかったら、ホタルさんのこと、探しに行こう」
ライトはお守りを拾い上げ、宝物を扱うように両手でぎゅっと握り締めた。