第13話:ガラスの島の猫
リンゲルの研究所を攻略した翌日。
転移事故への憂いも晴れて、二人はようやくホタルの家へと戻ってきた。
ダイニングキッチンに甘い紅茶の香りが漂う。
ポットとティーカップがホタルの飛翔術でふよふよと宙を飛び、テーブルの上へと着地した。
「これ、人間界のお茶っ葉ですか?」
「そうだよ。古い時代の収穫祭で、大地の精霊に捧げられていたのと同じ品種だ」
ホタルが微笑みながら説明してくれる。
これも精霊学者としての研究の一環で手に入れた品なのだろう。
ライトはカップに口をつけた。味わいはマイルドで癖も少なく、華やかな香りが心地よい。
紅茶は淹れ方も重要だと聞くが、ホタルのことだから、その辺りの基礎もしっかりと押さえているに違いない。
ライトはもうひとくち、紅茶を飲んだ。
ホタルが穏やかな表情で、今後の予定について話し出す。
「ライト。慣れない魔界生活で疲れも溜まっているだろう?
今日は迷宮へは行かず、ゆっくりしているといい」
「お休みってことですか?
だったらボク、冒険道具を補充したいです。魔石と回復薬と、あと服も。
手持ちの資金が心許ないので、少しは依頼も受けたいですし⋯⋯」
ライトは休日にやりたいことを指折り数える。
研究所での戦いで、ライトの服は破かれていた。旅の着替えはまだあるが、補充できるならしておきたい。
「人間界だと、町の人たちから冒険者への依頼を仲介してくれる『ギルド』って組織があるんですけど⋯⋯。
魔界には、そういうのありますか?」
「ああ、あるとも。少し遠出になるけれど、キミが望むなら連れていこう」
「お願いします」
ライトはホタルの言葉に頷いた。
ホタルは楽しげに微笑んで、席を立つ。
「了解した。それじゃあ、私は準備をするから、用意が出来たら屋上へ来てくれ」
ライトは紅茶の残りを飲みながら、不思議そうな顔をした。
⋯⋯屋上? 次元移動の時に使ってた遺跡じゃなくて?
よくわからないが、考えたところで仮説は立たない。
けれど、まあ、どうせ行けばわかるのだから、答えを気にしてアレコレと悩まなくても良いだろう。
ライトは飲み終わったカップに浄化の魔法を掛けて、シンクの端に置き、ダイニングキッチンを後にした。
屋上へ続く階段を登って、扉を開ける。
ざあざあと水の流れる音が涼やかにライトを出迎えた。
家の壁面を流れ落ちていく滝の水路が陽光を反射している。
そのすぐ横に、小振りな熱気球が一機。
風船を大きく膨らませて、飛び立つ瞬間を待っていた。
「来たね、ライト。さあ、乗って」
ホタルがバスケットの中から微笑む。彼女は宙に浮かべた手袋を、ライトに向かって差し出した。
どうやら次元移動ではなく、空を飛んで向かうつもりらしい。
ライトはホタルの手袋を握って、タラップを登った。
バスケットの中は、思っていたよりも狭い。目算でおよそ1m四方。
旅館の一人風呂くらいの大きさだろうか。ホタルとの距離もかなり近い。潮風の香りが、ライトの目前に漂っていた。
「離陸するよ」
ホタルが怪火の勢いを強める。
バスケットに吊るされていた重いバラストの袋が、飛翔術で浮き上がり、収納箱へと飛び込んでいく。
箱の中には亜空間が広がっており、バラストの質量と重量が熱気球の中から消えた。
軽さを増した気球が、ふわりと宙へ飛び立っていく。
ライトはバスケットの縁を掴んで、遠ざかっていく地表を見た。
「わあ、飛んでる⋯⋯!」
「ライトは、気球は初めてかい?」
「はい。こういうの、宮廷魔導師とかがやることなので。
飛んでるのを見たことはあるんですけど、乗ったのは初めてです」
ライトは楽しげに笑いながら、地上を見下ろした。
ホタルの家があるバーツの森は、三日月の形をした島の端のほうにあったらしい。
島から少し離れた海には大陸が見え、白い建物が並んでいる港町が目に入った。
魔界の地理に疎いライトでも、わかる。あれは港町バーバラだ。
平原に建つカカオカの道具屋は、距離が遠すぎてよく見えなかった。
「ホタルさん。これから行く町って、どの辺りにあるんですか?」
ライトはホタルを振り返って言う。
ホタルは頭上を指差して、楽しげに笑った。
「空の上だよ。断崖浮遊都市フラクス。
どんなところかは──、語るより見たほうが早いかな」
もうすぐ着くよ、とホタルが口にしたと同時に、気球が雲の中へと入る。
人間界の雲とは違って、宙に浮かんだ微細な魔力結晶が光を歪めて出来ている白い幻覚だ。
気球はふわりと雲の層を突破して、宇宙が混ざり始めた紫紺の空へと頭を出した。
「見てごらん、ライト。あれが今回の目的地だよ」
ホタルの手袋が示した先には、巨大なガラスの島が浮いていた。
キラキラと光を反射する半透明の魔力結晶が、雲に支えられるようにして悠然と佇む。
島の中央には高い塔が聳え立っており、その天辺に、天文台の巨大な望遠鏡が見えた。
さほど広くない土地を有効活用するためか、ツクシのように細長い建物がいくつも地面から伸びている。
「⋯⋯凄い。町が空に浮いてる」
人間界では、まずありえない光景だ。
ライトはこの綺麗な町を見るのに夢中になりすぎて、感想を頭から取り出す余裕がまるで無かった。
ホタルは楽しげに微笑んで、熱気球を風に乗せる。
怪火の炎が弱められ、気球はガラスの島から伸びた大きな桟橋に着地した。
ライトはバスケットから降りて、断崖浮遊都市の土地を踏む。
ホタルが飛翔術でテキパキと気球を解体し、収納箱に全て仕舞った。
収納魔法は、やはり便利だ。人が乗れるほど大きな物が、トランプくらいの大きさになった。
「さて、まずはギルドからだね。
魔界では、冒険者向けの情報は酒場の掲示板に貼り出されている。
日雇いの人員募集もあるから、まずはそこを覗いてみよう」
「わかりました。酒場はどこにあるんですか?」
「町に入ってすぐの通りさ。案内するから、ついておいで」
ホタルがライトの前へ手袋を差し出す。
ライトは彼女の手袋を握って、雲上の町へと歩き始めた。
町の外周は、芥子色の煉瓦の防壁がぐるりと取り囲んでいる。魔石を練り込んで軽くした建材だ。
桟橋の終点には、人間の倍は身長があるサイクロプス族でも通り抜けられるほど大きな門が設置されている。
「左側は巨人族の生活圏で、右側が中型種の生活圏だ」
説明しながら、ホタルが酒場へと向かっていく。
どうやら、目的の店は立ち飲み屋のようだ。
仕事終わりの運び屋や旅芸人と思しき客が、酒樽の形をしたテーブルを囲んでいる。
二人は掲示板のある壁のほうへと歩いていった。
掲示板には、新しく出来た迷宮の宣伝や、イベントの告知なども貼り出されている。
⋯⋯余談だが、魔界で一般的に使われている文字は人間界のものと同じである。
魔界で最も人口が多い悪魔族は、効率的に人間を誑かして魔力を奪えるようになるために、人間の文化を模倣し理解することを美徳としているのだ。
勿論、ライトはそんな背景まで深く考えることはなく、呑気に文字を読んでいく。
「冒険者向け⋯⋯と言うよりは、手伝ってくれるなら誰でもいい、って感じの依頼が多いな⋯⋯」
ライトは求人広告の内容を確認しながら、呟いた。
倉庫に湧いたスライム退治、ペットの魔獣の散歩代行、練習中の料理の味見役──。
ライトの身体能力と魔法耐性では、ほとんどの仕事が厳しそうだ。
大半は、獣人や悪魔が受けることを想定している。
「⋯⋯これなら行けるかな?」
ライトは端のほうに貼られていた依頼書の文字を指でなぞった。
『いなくなった飼い猫を探し出してくれたら謝礼を出します』という一文の下に、長毛の猫と老人の肖像画が貼られている。
脚が太くてがっしりとした体格の大きな猫だ。人間界だと、雪原地帯にこういった大型の猫がいると聞いたことがある。
「⋯⋯うん、これにしよう。猫探しなら、偵察術が役に立つかもしれないし。
他にボクでも受けられそうな依頼は無いし」
ライトはホタルのほうを見た。
「ホタルさん。ボク、この依頼を受けようと思います」
「そうか。──マスター! 貼り紙の写し絵を頼む!」
「あいよ! 少々お待ちください!」
酒場のマスターが白紙を持って掲示板のところまで来る。
赤黒い鱗の竜人だ。細身ながらも筋肉質で、鱗にも程よい艶がある。
ホタルは彼に魔貨を支払い、転写魔法でコピーされた依頼書を受け取った。
「ちょっと、ホタルさん! ボクが受けた依頼なんだから、仲介料はボクが払いますよ!」
「ああ、すまないね。私が受ける依頼もまとめて転写してもらうつもりだったから、まとめて払ってしまったよ。
初めてこの町に来たお祝い、だとでも思ってくれ」
ホタルはくすくすと笑いながら、マスターに別の貼り紙の転写を頼む。
ライトは肩を竦めながら、依頼書を畳んでポケットに入れた。
ホタルさんは本当に、隙あらば世話を焼いてくる。
「⋯⋯仕事に行く前に、ご飯食べましょう。ここまで登ってくるのに結構、時間使ったと思うので」
「そうだね。確か、隣の店でこの町の名物を出していた筈だ。
今日のお昼は、そこにしようか」
「わかりました。ホタルさんも、ちゃんとご飯は食べてくださいね」
「ふふ。わかったよ。それじゃあ、行こうか」
ホタルの手袋が、ライトの手を引いて歩き出す。
冒険酒場の隣の店は、香ばしい揚げ物の香りが漂う食堂だった。
二人は席に着き、名物だという丼モノと、火属性の魔式懐石を注文した。
暫くして、店員の魔人が料理を運んでくる。
「はい! こちら、当店名物の『飛竜のタワーカツ丼』です!」
ドン!と揚げ物の山がテーブルに置かれた。
カラッと揚げられ、美しい断面を同等と見せつけてくるカツと、衣のザクザクとした食感が食べずとも伝わってきそうな竜田揚げ。
その二種類の揚げ物が、高めに盛られた米飯に寄り添うようにして積み上げられている。
肉々しい塔の天辺には、飛竜の小さな手のひらのフライが、カツの山に沈みながらサムズアップでもするかのように突き出していた。
丼のふちから微かに見えるキャベツはまるで、巨大な塔が聳え立つこの都市を支える雲海を思わせた。
「あの、ホタルさん⋯⋯。思ったよりも、大きいんですけど⋯⋯」
「余った分は、持ち帰っても良いことになっている。食べられる分だけ食べれば良いよ」
ホタルは穏やかに微笑みながら、バケツから懐石を取り出している。
ライトは熱々のタワーカツ丼を見つめ、とりあえず両手を合わせた。
「⋯⋯いただきます」
「いただきます」
ライトはひとまず、天辺に刺さっている手のひらフライを取り皿へ移した。
箸は上手く使えないので、フォークとスプーンでバランスを取りながら運ぶ。
それから、塔が崩壊しないように慎重に、カツと唐揚げも少し取り分けた。
「⋯⋯こうして見ると、ワニ揚げみたいだな」
味も同様に、淡白なのだろうか。
ライトはカツを齧ってみた。
美味しい。油もくどくなくてアッサリしている。少し弾力を強く感じるチキンカツと言った味わいだ。
一方で、唐揚げはジューシな肉感が堪らない。ザクザクとした衣の歯ごたえもさることながら、下味として揉み込まれているスパイスの風味が最高だ。
食べるたび食欲が刺激され、逆にお腹が空いてくる。
ライトはカツと唐揚げを交互に口へと運んでいき、取り皿に残った手のひら揚げを見下ろした。
指の形が丸ごと残されていて、見た目のインパクトはかなり強いが、ライトはまるで気にしない。
フォークを突き刺して、かぶりついた。
「⋯⋯美味しい!」
竜皮の表面はパリパリと香ばしく、その下の肉はぷるぷると柔らかく、まるで旨味の形が違う。
飛竜の手が小さいのが残念に思えるほど美味だ。
ライトは揚げ物のタワーを解体し、引っ張り出したキャベツと共にカツを頬張った。
山のようだった料理はどんどん胃袋の中に吸い込まれていき、ライトは米の一粒も残さずに全て食べきってしまっていた。
「はぁー⋯⋯、美味しかったぁー⋯⋯」
食後のお茶を啜りながら、ライトは満足げに笑う。
なんだか、このまま寝てしまいたい気分だ。
「ふふ、よく食べたね。暫くゆっくりしていくかい?」
「いえ。お仕事はちゃんとします。じゃないと薬が買えないし」
「勤勉だね。それじゃあ、そろそろ店を出ようか」
ホタルが店員に代金を払う。
二人分まとめての会計に、ライトは「あっ」と声を上げた。
「ボクの分はちゃんと自分で払いますよ!」
「そうはいかないよ、ライト。キミに魔界生活を強いている以上、食費のサポートは雇い主として当然の責務だ」
「えぇ⋯⋯? 魔界だと、そういうものなんですか⋯⋯?」
「少なくとも、私とキミの契約ではね」
ホタルが微笑む。
なんだか丸め込まれてしまった気もするが、言い返す言葉が見つからない。ライトは渋々引き下がった。
二人並んで店を出て、ホタルが手を振るように手袋を動かす。
「それじゃあ、行ってらっしゃい、ライト。
私はそこの釣り桟橋で釣り人の仕事をしてるから、何かあったらすぐにおいでよ」
「わかりました」
「⋯⋯ああ、そうだ。この町の中ならば安全だろうと思うけど、念のため、これを身につけておいてくれ」
ホタルが服のポケットから小さなストラップを取り出す。
飾り気の無いシンプルな楕円形の板がついているストラップだ。板には青白い魔法石が埋め込まれている。
「なんですか、これ?」
「キミが私に雇われていることを示す身分証だよ。魔避けの効果をつけているから、悪意ある者を遠ざけてくれる」
「へえ。ありがとうございます、ホタルさん」
ライトは受け取ったストラップを、腰のポーチの隣に吊るした。
なんだか迷子札みたいだが、邪魔でもないし良いだろう。
ホタルはひとつ頷いて、改めてライトを送り出す。
「猫探しの依頼、頑張っておいで、ライト」
「はい。ホタルさんも、気をつけてくださいね」
ライトはホタルに手を振って、通りの先へと歩き始めた。
これから探す飼い猫は、ふわふわの長い毛で覆われている。恐らくは涼しいところにいるだろう。
ライトは建物の影になっている裏路地へ適当に飛び込んだ。
日差しの差し込まない細道はひんやりとしていて、薄暗い。
ライトは魔法で光の球を作り出し、物陰をひとつひとつ覗き込んだ。
植木鉢の陰には、風で飛んできたらしいサーカスのチラシ。
補修の材料として積まれた煉瓦の陰には、タンポポに似た花の小さな芽。
長毛の猫はどこにもいない。
町の魔道具のノイズに耐えて偵察術を使ってみたが、小鳥が何か引っ掛かっただけだった。
「⋯⋯うーん、いないなぁ。別の路地裏を探してみるか⋯⋯」
行き止まりへと辿り着き、ライトはポリポリと頭を掻いた。
最後にもう一度、周囲を見回して、何となく頭上も見上げてみる。
ふわふわとした毛玉のようなものが、高い場所にある配管の上に微かに見えた。
「──妖精さんだ!」
ライトの瞳がキラキラと輝く。
思わず漏れ出た叫び声に驚いたのか、毛玉はサッと壁際に寄って、小さな姿を隠してしまった。
真下から見上げるような今のライトの位置では、パイプの上にいるものがよく見えない。
ライトは即座に反対側の壁へ駆け寄って、妖精を視界に入れようとした。
「妖精さん⋯⋯! って、あれ⋯⋯?
なんか、違うな。どう見ても妖精さんじゃない⋯⋯」
ライトはガックリと肩を落とした。
配管の上に見えた毛玉は、ふわふわとした毛を持つ獣だ。妖精さんじゃない。
ぬか喜びさせやがって、と睨みつければ、相手はライトの視線に気がつき、フシャー!と威嚇を返してきた。
「⋯⋯あれ。あの模様、依頼にあった猫と同じか?」
ふと気がついて、ライトは依頼書を引っ張り出した。
茶色の波が揺れるような縞模様。長い毛に埋もれかけている首輪の色も、たぶん同じだ。
高い場所から見下ろしてくる猫を見つめて、ライトは呟いた。
「さて、どうやって捕まえるか⋯⋯」