寝る前の時間
僕は社会人5年目になる、28歳独身男性。夜の街から逃げるように部屋に入る。湯船に浸かり、コンビニで調達しておいた唐揚げ弁当をツマミに、ちょっとぬるくなって、泡が噴き出した500mlの発泡酒を2缶飲んだ。歯磨きをして、ベッドに飛び込む。あとは瞼を閉じて、夢の世界にも飛び込むだけ。
しかし、ここからの時間が1日のハイライトであるからして、そう易々と終わらせる訳にはいかない。
皆さんは、頭の中にいるもう一人の自分と頻繁に会話をしますか?僕は、眠りにつくまでの時間に、恋人と長電話をする要領で、毎日自分とじっくり語り合うのです。今の時刻は23時と、スマートフォンの煌々と輝く液晶画面が、教えてくれている。
「今日は仕事でどんなミスをしたんだ?」
もう一人の自分が、口火を切った。今日の職場風景を思い起こす。朝から上司に呼び止められた。昨日帰る前に渡した資料に誤字があったと。それで朝から30分程、小言を言われた。確かにミスはミスだけど、小言というには長尺過ぎるよ。
「またあの嫌味な上司か。本当にお前の事好きだな。いっそ付き合ってみたらどうだ?」
冗談じゃない。背の低い、小太りの、髭面おじさんと知っているじゃないか。多分あいつは、童貞だよ。女性社員と話す時は、暑くもないのに汗をかいているもの。僕に説教する時は、実に涼しげなものだよ。だけど、あそこに就職してからずっとあいつの下で働いているから、過ごした時間だけは恋人級だね。
「恋人級ね。そういや町山ちゃんとは進展あったのか?」
町山さん、今日も優しかったよ。昼にまたあいつに怒られたんだ。今度は別の資料に、関係ない書類が混じっていたって。お昼休憩行く直前に、わざと呼び止めてきてさ。おかげで休憩が30分しか取れなかったんだよ。休憩から戻ってきたら、僕のデスクにチョコが置いてあったんだ。誰からだろうって見渡したら、町山さんと目が合って、ニッコリと微笑みながら、チョコを指差してきたんだ。凄く優しくて、可愛いんだよ。
「良かったじゃん。可能性あるぞ。デートに誘ってみろよ」
前に食事に誘った事あったでしょ。金曜日に退社時間がたまたま被った時。でも、用事があるって断られたんだよね。それだけでも悲しかったのに、週末だから真っ直ぐ帰りたくなくて居酒屋を探していたら、あいつと遭遇したでしょ。
「あったな。あいつに、『週末だからってはしゃぎ過ぎるなよ』とか、『お前が帰った後、またミスを見つけたから、週明け話すからな』とか、小言の予約されたんだよな」
そのせいで、週末の間気分は最低だったよ。町山さんには誘いを断られたし、加えてあいつが手ぐすね引いて、月曜日を待っていると考えちゃってさ。
「可哀想だったよな。いっそ、あいつが死んでくれたらって、お前言ってたもんな」
入社してから、ずっと目をつけられて、ストレス発散の捌け口にされているからね。でも、さすがに本気じゃなかったよ。
「いつも、あいつの顔ばっかり思い浮かべて、不健全極まりない。町山ちゃんの話をしようぜ」
そうだね。時間は2時。まだまだ眠くないよ。瞼の内側に小人がいるみたいだよ。全然、閉じようとしてくれないんだ。
「今日はいつもより、興奮気味だな。酒が効いているんじゃないか。町山ちゃんは、地味なのに妙な色気があるよな。背が低くて、胸だって大きくないのに、そそるんだよな」
そんな表現を、彼女に使わないでくれよ。町山さんは、清楚なんだからさ。チョコをくれたり積極的な時もあるけれど、基本的には自分の意見を、はっきり言えない子なんだよ。だから、あいつがつけ狙ってくるんだ。
「ああ。お前が何度か助けてあげてたな」
そうだよ。あいつ童貞のくせに、町山さんにだけはアグレッシブに関わろうとするんだ。お昼休憩の時に町山さんの対面に座って、眉と鼻の下がこれ以上ない位下がってて、ニヤニヤしながら話かけてた。あいつの側に寄りたくなかったけど、町山さんが困っていたから、隣に座って救出したんだ。他にも、会議室で何故か2人きりでいたから、あいつに用事がある振りしてドアを開けたら、町山さんが凄く安心した顔を僕に向けてくれたよ。
「そしたらその腹いせに、毎回小言が1時間用意されていたな。あ、またあいつの話をしてしまった。町山ちゃんとの淡い恋物語に、花を咲かそうぜ」
最近の出来事で印象深いのは、朝の通勤電車で偶然乗り合わせた事だね。いつもより早起きして、いつもより3本早い電車に乗ったら、たまたま町山さんがいたからさ。会社に着く間、趣味の話とか、休日の過ごし方とか、好きな異性のタイプとか、今度は食事に行こうって、約束もしたしね。
「それはファインプレーだぞ。ちゃんと良い店探さないとな」
そうだね。町山さんは結構お酒が好きで、中でも日本酒が1番らしいから、銘柄の多い店を探そうと思ってたんだよ。あ、もう5時だ。微塵も眠気を感じないや。
「町山ちゃんの事考えると、胸が高鳴って眠れないか。日本酒って確かあいつも好きだったよな」
そうそう。入社して最初の頃に連行された店が日本酒を多く扱ってて、帰り道の途中にあるから予約して帰ろうと思ってさ。店の近くに差し掛かったら、あいつと町山さんが2人で店から出てきたんだ。
「なんと、また付き纏っていたか。それで、お前はどう動いた?」
もちろん、守る為に声を掛けようとした。そしたら、あいつが町山さんを横路地に引き込んで、抱きついたんだ。町山さんは恐怖で身体が拘縮してて、抵抗出来てなかった。
「ついにあいつの性欲が爆発したな。それでどうなった?」
あいつは、最早人間ではなくケダモノだったよ。次は、町山さんの唇を無理矢理物にしようと、迫っていた。僕は、守りたい一心だった。町山さんの僕を見つめる瞳、僕と楽しそうに会話する横顔、チョコをくれた時の慈愛に満ちた微笑み、それらの映像が僕の身体を突き動かした。コンビニで買っていた発泡酒の缶で、あいつの脳天をぶっ叩いてやった。ビニール袋に入っていて、しっかりと遠心力で勢いをつけたから、あいつは地面に倒れ込んだよ。
「おお〜、素晴らしい!男前だ。もう町山ちゃんは手に入れたも同然だな」
僕、そのまま抱きしめようとした。町山さんの身体が震えて、涙を流していたから。泣き顔は貴重だし、可愛かったけど安心させたかった。
「お前、今日は覚醒しているな。エンディング曲が流れそうな展開だ」
近づく僕を阻む存在がいた。あいつが立ち上がって、僕を羽交い締めにした。必死で振り解こうとした。町山さんに危害が加えられない為に、仕留めないとって考えた。
「お〜、ホラーやサスペンス映画の定番だ。何度でも復活する悪役。ピンチの主人公と泣き叫ぶヒロイン。その危局をどう捌いたのか!」
あいつ、背が僕より低いくせに力が強くて、その上変な事を言ってて、それに惑わされて中々抜け出せなかった。「佳奈ちゃん、逃げて」とか、「このストーカーは、俺が止める」とか、「佳奈ちゃんは、俺が守る」とかさ。あいつ、町山さんの名前を呼んでた。町山さんも「直義さんを置いて逃げれない」とか、「この変質者!犯罪者!」とか、聞いた事ない大声を出してさ。僕は頭の整理が追いつかなくて、力もうまく入らなかった。その内に、あいつに投げ飛ばされて、壁に衝突した。背中がまだ痛むよ。
「町山ちゃんの下の名前も、あいつの名前も初めて知ったな。あいつ、名前あったんだな。逃げる為に、町山ちゃんがあいつの世迷言に調子を合わせたんだろ。懸命な判断だな。それよりも、お前の怪我は大丈夫か?」
痛むけど、動けるからきっと骨折はしてないよ。体勢を変えるとズキズキするけど。世迷言だったのかな。僕が痛みの波をやり過ごしてる間に、町山さんは逃げていったよ。「すぐに警察を呼ぶから」って僕に言ってる筈なのに、身体全体があいつに向けられてた。ああ、走っている後ろ姿がハムスターみたいで、可愛かったなぁ〜。
「やったじゃないか。ミッション達成だな。警察を呼ぶって、それはあいつに言うだろ。神妙にお縄につけって、暗に伝えていたのさ。町山ちゃんは、所作が可愛いに直結しているよな」
違和感はそれだけじゃなかったよ。町山さんの悲鳴を聞きつけた野次馬が集まってきてさ、皆んな僕を指差してヒソヒソと耳打ちしていたんだ。獣を、距離を取りながら観察してるみたいだった。おかしいよ。正しい反応は、賛美と拍手喝采でしょ。愛すべき女性を身を挺して、守っているんだよ。
「偉大すぎる人物は、畏怖の対象になるのが世の常だ。なにも気にする必要がない」
それだけじゃない。僕が野次馬に思考を割いてる間にあいつがさ、なじってきたんだ。
「彼女へのストーカー行為をやめろ!いつも会社で付き纏っているのを、俺は自分の眼で見て、彼女から聞いて知っている。会議室で、初めて彼女から相談を持ち掛けられた時はまだ半信半疑だった。だけど、お前は用事もないのに部屋に入ってきた。怒りに満ちた眼を、俺に向けてきた。それからは、確信に変わった。え?ストーカーは俺のほうだって?悪いが、俺と彼女は付き合っている。相談を聞いている内に、大切な人になった。以前彼女を食事に誘って、断られた事があっただろ?その時も俺と待ち合わせをしていたんだ。2人で食堂にいた時も、お前は無言で彼女の隣に座り込んで、俺を睨みつけてきたな。朝、通勤中に食事の約束をした?彼女が乗っている電車を調べたんだろ。いつもいない筈のお前が乗ってきて、凄く怖かったと言っていた。お前の言葉に頷くしかなかったと泣きながら訴えていた。俺は、怒りに震えたよ。今日チョコを貰った?あれは部長が出張のお土産で、部署全体に買ってきた物を彼女が配っただけだろ。笑いかけてくれた?お前が恐ろしくて、愛想笑いをしていただけだ。妄想も大概にしろ!なぁ、病院に行こう。お前はどこか病んでいるんだ。俺が仕事で、追い込み過ぎたのかもしれない。それなら謝るから、彼女には危害を加えないでくれ」
僕は、殺すしかないって思った。元々死んで欲しかったけど、嘘でも町山さんと男女の仲だって主張する人間は、許せないよ。
「それは仕方ない。万死に値する。判決は死刑だな。ちゃんと殺したか?」
殺そうとして、ビニール袋を振りかぶった。その時に、野次馬が阿鼻叫喚の様相を呈した。どんどん人影が増えてきたから、一旦退却したのさ。
「なるほど。それで今日は、あいつの家にお邪魔してる訳か」
そうだよ。飲み潰れたあいつを、家に送り届けた際に鍵の置き場所は把握していたからね。いつも記憶を飛ばすまで飲んで潰れないと、解放してくれないからね。
「5年間に及ぶ努力の賜物だな。お、噂をすれば帰ってきたみたいだ。話し声がするな。町山ちゃんと一緒か」
じゃあ、今度こそきちんと終わらせて、町山さんを解放するね。きっと彼女は何か弱みを握られてて、あいつに従うしかないんだよ。図に乗って嘘に嘘を重ねて、僕を犯罪者に仕立て上げようとまでした。生かしていては、周囲の人間を不幸にする。
「そうだな。そう考えれば、全てに合点がいく。じゃあ、良い報告を待ってるぞ。また寝る前の時間にな」
期待して待ってて。また寝る前の時間にね。