ジンクスの終わり
可愛げなおもちゃが夢の中でしゃべっているかのような。
凄惨な状況に似つかわしくない、そんな慈悲を含んだ声がまっすぐピクラスに向けられた。
雨は降っていない。
幸せと雨の化身はルールを破り、この場に参上した。
「お前……ダンサー・イン・ザ・レイン」
「久しぶりダネ。私のヒーロー」
「なんでお前が……?」
「借りを返しにダヨ」
彼女は茫然とするピクラスのほうを向く。
ピクラスの顔から怯えや恐怖がみるみる消えていった。
「ジンクスをとりこんだニグレドかぁ~。厄介なのに目をつけられたネ」
「あ、あんたは」
「やっ、君を幸せにしにきたヨ」
「私を……?」
「ほんのちょっと待ってテ。アイツを少し黙らせる」
瞬間移動。
いや、いたという形跡ごと消えたと言うべきか。
それほどの速さにして周囲の建物を破壊したりしないあたり、そこは異能の存在というべきだろう。
ダンサー・イン・ザ・レインは一瞬で都市を駆けまわり、ピエロが繋いできた不幸の連鎖を断ち切ってきた。
『ギィィィィィィアアアアアアアアアアアアッ!!』
「こ、これはっ、やつの断末魔か!?」
「はいただいま~。見てたカナ~」
ピクラスの顔を覗き込むようにして微笑んで見せる。
断ち切った空間からは虹が出て、怯える人々へ光明を与えていた。
その恩恵はもちろんピクラスやゲオル、そしてオルタリアにも。
「ありがとよ! じゃ、こっからは俺に任せろ!」
「ちょっと、抜け駆けなしよ!」
ふたりが去ったあと、ピクラスはずっと彼女と向かい合っていた。
「……あの、ありがとう、ございます」
「人生は偶然と必然の巡り合わせサ」
「え……」
「ジンクスもそう。ただそれだけの知識であり、警告であり、言葉遊び。でも、君にとってはそうじゃなかったんダネ。"信じる"が楔になって、逆に君を縛り付けてしまうだなんて……」
本当に年ごろの少女のようだった。
だが舞台装置めいて抑揚もなく言葉をつむいでいく。
「幸不幸の"意味"を求め続けること、それ自体はとても美しいのかもネ。でも、心は意味を求め続けることにきっと耐えられない。私の目に映るのはそんな人たちばかりダ。彼らは常に幸せに病んでる。止まない雨の中でずっと虚空を見つめてネ」
────だから私が生まれたんだ。
ただそれだけのことというように。
救いや慰めの言葉ではなく彼女の感じたまま、見たままをピクラスに届ける。
「今から君に与えるのはジンクスでもなければ魔法でもない。私の幸せは、君にとっては"キッカケ"に過ぎナイ。────私は雨の日のための傘。あとは自分で歩くんダヨ」
「え、あ……ッ!」
ピクラスが手を前に出すも、彼女の姿はもう消えていた。
そのかわりに聞こえてきた大歓声。
あのピエロの討伐に成功したらしい。
ゲオルもオルタリアも絶好調ばりに身体が動くことに驚いていた。
ジンクスが、終わった。
涼やかな風が首筋と傷ついた心を吹き抜け、暗雲を貫く虹が彼の瞳に彩りを与える。
騒動から数日後、ピクラスは改めてゲオルとオルタリアに礼を言いにいった。
「よう、ずいぶんパリッとした格好してるじゃねえか」
「あれ、雨上がりだけど外出ても大丈夫なの? 迎えにいってあげるのに」
「正直、ここまでくるの不安でしたよ。でもジンクスと向き合おうって、そう思ったんです」
「へぇ、大した心変わりだな」
「はるか東の国には"言霊"って考えがあるらしいです。言葉の持つパワーが現実を変えてしまう。今回ももしかしたらそうなのかもしれません。小さいころから刷り込まれてきたジンクスの意味を考え続けたこと。それがあの化け物を生んでしまったのかも。なら、その反対だってできるはずです」
彼の表情と声調は明るかった。
「ここからは自分でやらないと」
「フッ、なにかあったら俺らに言いな」
「そうよ。いつでも力になってあげる」
「ありがとうございます。これは今回のお礼です。受け取ってください」
こうして事件は終息した。
その夜、ゲオルはロウソクをつけた薄暗い部屋の中でひとり酒をあおる。
そして幸せについて考える。
幸せを望む心に怪物は潜むのか。
なら幸せになりたい人間は、一体なんなのだろう。
人間と怪物の狭間で揺れ動く心に、救いや慰めはあるのだろうか。
とはいえ答えなど出るはずもない。
ゲオルは哲学者でも聖者でもないのだから。
酒をひと通り飲んだあと、濃くなっていく夜闇に抱かれながら眠りについた。