8章
フロントガラスに小雨がチラつき始めている。
車内は静まり返り、エンジン音が微かに響いている。
綿貫は前方を見つめたまま、運転に集中している。
日高との対面が、刻一刻と近づいている。
対面した時、日高はどんな顔をするのだろう?
そして、僕はどんな感情になるのだろうか。
取り留めの無い考えが頭を巡る。
綿貫が店を出る時、思わず声が出てしまった。
自分も立ち会わせて欲しいと。
そんな権利があるのかも分からなかった。
綿貫は黙って頷き、車に乗るように言うのだった。
こうやって、綿貫と会うのもこれで最後になるかもしれない。
そんな予感がしていた。
もしも警察を辞める必要が無くなっても、互いに会おうとは思わないだろう。
こうやって、同行させてくれるだけで十分だ。
今回の件で、どれだけ綿貫に借りを作ったか。
きっと、何一つ返せないままになるのだろう。
申し訳なさで一杯になりながら、助手席に座っていることしか出来なかった。
車は市街地を抜け、海岸方面へと向かっていた。
雨足が強くなり、ガラスを叩く音が大きくなる。
コンテナが並ぶ港に着いた所で、車は止まった。
人気は無く、潮風が強く吹いている。
綿貫がコンテナの間を歩いて行くと、その先に大きな倉庫があった。
迷うことなく、綿貫が重い扉を開ける。
この中に、日高がいるのだろうか。
鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。
倉庫内には、暗闇が広がっていた。
右奥に階段があり、上った先に幅数メートルの廊下が建物を囲んでいる。
倉庫内は埃っぽく、息を吸うと咳き込むほどだ。
綿貫が扉を閉め、倉庫の中央へ向かって歩き始める。
声を掛けてはいけない雰囲気を漂わせている。
「おい、ここにいることは分かっている。
大人しく出てくるんだ」
倉庫内に綿貫の声が響き渡る。数秒待っても反応は無い。
日高は逃げたのかも知れないと思い始めた時、頭上の廊下から人影が現れた。
人影は、地上へと続く階段へ向かって歩き出す。
割れたガラスから差し込む外の光が、人影を照らし出す。
日高だった。
その顔はやつれ、頬がこけており、まるで病人のようだ。
口を開くことなく、階段をゆっくりと降りてくる。
僕と視線が合っても、とくに動じる素振りは見せなかった。
気づかなかったが、日高の手には拳銃が握られていた。
腕はぶらりと垂れ下がり、今にも落としてしまいそうだ。
綿貫は警戒をすることなく、ただ日高と対峙している。
携行していないのか、拳銃を日高に向ける様子もない。
胸のざわめきを感じ始めていた。違和感が徐々に心の中で膨らんでいた。
沈黙が続いたあとで、日高がポツリと話し出す。
「警部、すみませんね。こんなことに巻き込んでしまって。
全て武史が悪いんですよ。
組のブツに手をつけ、その上お嬢さんにまで手をだすなんて」
呆れたように日高が言う。
「本当にあなたが武史を殺したんですね」
日高は何度も僕に向かって頷く。
すでに聞いていた事とは言え、動揺が隠せない。
「組長の娘の遺体は何処に運んだんですか?」
日高はふっと鼻で笑い、綿貫の方を見る。
質問に答えないまま、手に持っていた銃を僕へ向ける。
「私は往生際が悪くてね、捕まるわけにはいかないんですよ」
日高は醜い顔で、僕の顔を見つめるのだった。
その瞬間、背筋に悪寒が走る。死が突然、目の前に立ちふさがる。
死を覚悟出来ていないのだと、今頃になって分かった。
日高の人差し指が、引き金に掛かっている。
足に力が入らず、逃げることも出来ない。
倉庫内に発砲音が響き渡る。
次の瞬間、日高が足から崩れ去っていく。
頭に銃弾の跡があり、血を流して倒れている。
隣の綿貫が、構えていた銃を降ろす。
綿貫に救われたのだ。
そして、構えていた銃を今度は僕に向けてくる。
違和感の正体にやっと気づいた。
「そういうことだったんだな」
銃口を向けた綿貫が、冷徹な顔で見てくる。
「もっと早くに気づくべきだった。
今頃気づくなんてな。可笑しいと思ったんだ。
現場に誰一人として、到着していないなんて。
倉庫に入る時も、警戒する様子も全くなかったしな」
綿貫は動じることなく、銃口をこちらに向け続ける。
「お前が、アルジなんだろう?」
十年前の記憶が蘇ってくる。
警察学校時代のあの時の記憶が。
「またあのラガーマン、教官に盾突いたらしいぞ」
あの頃は毎日のように、綿貫は口論していた。
なりふり構わず、意に反することがあれば誰にでも食って掛かっていた。
最初は変人扱いされていたが、その果敢な姿に同期達の反応も変わっていった。
次第には、リーダー的な存在になっていた。
「別に教官が偉いわけじゃないだろう?
そんなにへりくだる必要はない。どうせ同じ人間なんだから。
階級が上だから何だっていうんだ。大切なのは信念だろう」
教官と争うたびに、綿貫は僕たちに向かっていうのだった。
「偉そうなやつらばかりだ。まぁどんな組織も変わらないかも知れないが。
俺は、そんな奴らを見ていると我慢ならないんだ。
いつか、その大事にしているポストから引きずりおろしてやる。
俺がこの腐った組織を壊してやるんだ」
鼻息を荒くしながら、そうやって言うのだった。
なぜそんなにも、上の者に対して怒りを覚えるのか分からなかった。
単に正義感に燃えているのだと、思っていた。
「別にあいつらの変わりなんて誰だって良いんだ。
俺達が警察をやらなくても、他の誰かがやれば良い。
ほとんどの奴が代替可能なんだ。代わりなんていくらでもいる」
綿貫の言っていることは、頭では理解できた。
ただ、それを受け入れることは出来なかった。
「一体、綿貫は警察をどうしたいのかな。
いつも熱弁しているけど、心の底が見えないんだよな。
その点だけはお前と似ているな」
同期の飯田は、綿貫を好意的に思っていなかった。
たまに僕へこんなことを言って来るのだった。
「偉くなって、組織を変革したいんじゃないか?
志を高く持っているのは良いことだと思うけど」
「ふーん、お前も他の奴らと同じなんだな。
綿貫の本質を見抜けていない。
仮面の下はどんな顔をしているか分からないぞ」
「本性を隠しているってことか?」
飯田は笑って、答えようとはしなかった。
「アルジっていうのはどうかな?」
飯田が一体、何を言っているのか分からなかった。
「何の話だよ。頭でも可笑しくなったか?」
ニヤつきながら、飯田はこちらを見てくる。
「あだ名だよ。綿貫の」
訳の分からないあだ名だし、そもそもそれをつける必要があるのか。
怪訝な顔で、飯田を見る。
「やっぱり、凡人には分からないか。
この素晴らしいネーミングが。
綿貫が良く言うだろう。
代わりなんていくらでもいるって」
聞けば聞くほど、理解出来なかった。
「それが何でアルジになるんだよ」
「代数を英語でアルジブラっていうんだ。
だからアルジ。変わった代わり者。
なぁ、あいつにピッタリだろ」
飯田の方が、余程変わっていると思った。
綿貫がこの話を聞いていたのか分からない。
もしかしたら、飯田は本当は綿貫と繋がっていたのかも知れない。
「全てはお前の計画通りだったってことか」
綿貫は黙ったまま、口角を上げる。
「日高もお前の仲間なんだろう?
喫茶店での携帯への連絡は、日高からだった」
「流石は俺が認めただけの事はあるな。
ただ、少し気づくのが遅かったな。
あとはお前を殺せば、俺の計画は完璧に終わる」
全ての事件の黒幕は、綿貫だった。
大林組の薬の強奪から売人の殺人まで。
綿貫の緻密な計画により、行われたのだ。
日高まで仲間だったとは驚かされる。
「お前の目的は何なんだ?
薬を手に入れて、一体何を企んでいる?」
死への恐れから、息が切れそうになる。
引き金が引かれれば、頭に銃弾が飛んでくる。
死がそこまで迫って来ている。
その瞬間を、少しでも引き伸ばそうと悪あがきしている。
あれだけ嘲ったこの世界にしがみつこうとしていた。
「前にも言ってただろう。
警察という腐った組織を壊してやると。
それが俺の望みだよ。
薬の強奪は、そのための過程に過ぎない」
綿貫がどうして自分を事件に巻き込んだのか。
それが今にして分かった。
「俺がアルジの身代わりという訳か。
警察が薬の強奪、また一連の殺人に関係していたなら、世間は黙っていない。
それがお前の狙いなんだな」
「あぁ、全てを白日の元に晒してやる。
どんなに言い訳しようが、逃れられない。
お前がアルジだという証拠は消えることは無い。
女と連絡を取っていた携帯はある。そして、女の死体もな。
誰だってお前を犯人だと思うだろう」
日高が死体を連れ去った目的が、自分に罪を擦り付けるためだったとは。
女の死体が自宅に運ばれているのだろう。
「まぁ、そんな目で見ないでくれよ。
今までだって、罪を犯しているんだ。
今回の件と同程度の罪をな。
だから別に良いだろう?
犯罪者であることに変わりないのだから」
綿貫が醜悪な顔でこちらを見てくる。
こんな顔を見るのは初めてだった。
飯田の言葉が、頭を過ぎる。
これが、綿貫の本当の姿なのだ。
「どうしてそこまで警察組織を憎むんだ?」
綿貫が高笑いをする。狂っているようだ。
「お前は勘違いしているよ。
俺が憎んでいるのは、警察組織だけじゃない。
この国に住む、全ての人間達を憎んでいる。
お前には分からないだろうな。この怒りが。
この国は豊かになった。確かにそうだろう。
だが、そのせいで弊害が起きている。
何の苦労もせずに、漫然と生きているやつ。
お前も見ただろう。クラブで遊ぶ若者達を。
あれがこの国が生み出した害悪だよ。
遊ぶ事にしか能がない奴ら。
そんな奴らが、この国の未来を作っていく。
笑えるだろう。
俺はな、そんな奴らを見ていると反吐が出る。
分からせてやるんだよ。この無能な民衆たちに。
この国の現状をな。
警察という組織ですら、低能なのだと。
想像するだけで面白い。
愚鈍な民衆が、嬉嬉として警察を罵る。
奴らは標的が決まれば、一斉に攻撃する。
まるで自分達が正義だとでも言わんばかりに。
メディアや政府に踊らされているとも知らずに。
自分の生活に飽き飽きし、他人の人生に干渉するんだからな。
本当に愚かな存在だよ。
だから、俺が少しばかり遊んでやるんだ。
感謝されても良いぐらいだ。
生活の中にスパイスを与えてやるんだからな」
心に溜め込んだ物を発散させるように綿貫が言う。
綿貫の持つ使命感は形を歪めている。
怒りを原動力にここまで生きてきたのだろう。
何かを破壊せずにはいられない。
そんな衝動を抱えているのが分かった。
「お前の過去に何があったかは分からない。
だが本当にそれを望むのか?
全てがお前が言う様な人間じゃないだろう。
その人達を巻き込んでまで、成し遂げたいのか?」
「そんなことは分かっている。
これは問題提起なんだよ。
愚か者に対してだけじゃない。全国民に向けてだ。
この国は変わる必要がある。
国を継続して行くには、犠牲はつきものだ。
痛みを伴わずに理解出来るのなら、既にそうなっているよ。
俺がこの国の民衆を、目覚めさせてやるんだ」
綿貫が拳銃越しに目を細める。
その時が、目前にまで迫っている。
「悪いが、お前もその犠牲の一人だ。
罪人は死をもって償わないと行けない」
綿貫がゆっくりと引き金を引く。
こんなにも死ぬのが怖いとは思わなかった。
[完]