7章
事件が動き出したのは、警察が大林組への捜索に踏み切ってからだった。
薬の売人の容疑者として、日高守に対する令状が出たのだ。
僕がそれを知ったのは、テレビによる報道だった。
日高の次に見知った顔の写真がアップされる。
厳粛な顔をしたアナウンサーが説明している。
僕はそれを見た時に、我が目を疑った。
あまりの事に、現実を受け止め切れなかった。
ワイプの中に居たのは、あの女だった。
薄暗い部屋のベッドで、裸で横たわっていた女。
写真での女は、こちらを見て微笑んでいた。
そのせいか、あの時よりも若く見えた。
女の正体は、大林組の組長の娘だった。
玲奈という美しい名前。
そんな娘が武史と出会い、そして薬漬けになってしまったのか。
その理由は、綿貫の口から聞かされることになった。
「どうやら、被害者と組長の娘は恋人だったようだ」
苦々しい顔をしながら、綿貫が言う。
今日も例の喫茶店は閑散としていて、ゆったりとした時間が流れていた。
いつの間にか常連になってしまい、店内に入るとマスターが会釈してくれた。
「そのことは、組長自身も最近まで知らなかったらしい。
呑気な話だよな。組の若い者と娘が付き合っていたのを知らなかったなんて」
吐き捨てるように、綿貫が言う。マスターがテーブルにコーヒーを置いていく。
綿貫の機嫌の悪そうな顔が、ぱっと明るくなる。
「それで、どうしてそんな2人が付き合うようになったんだ?」
「そこで出てくるのが、アルジという人物なわけよ」
綿貫が得意げな顔をこちらに向けてくる。
大方予想は出来たが、いざ言葉にされると驚きを隠せない。
ただ、なぜアルジが関係してくるのかが分からない。
「組長が言うには、アルジが被害者に組長の娘に手を出すように仕向けたらしい。
きっとそうに違いないって。まぁ、そう思いたいだけなのかも知れないがな」
「どうして組長はアルジの存在を知っているんだ?」
「2人の仲がどうなのか、日高に調査させていたみたいだ。
その中で、アルジという人物が出てきたらしい。
もちろん、どんな奴かまでは分かっていないがな」
嘲るように綿貫が言う。暴力団に対する嫌悪は、昔から抱いていた。
こんな状況になり、いい気味だと思っているのかも知れない。
頭の中で情報を整理していく。ふと、ある考えが浮かんでくる。
「まさか、大林組のブツを盗んだのって…」
綿貫が驚いた顔に一瞬なり、話を続ける。
「流石だな。そのまさかなんだよ。
盗んだのは武史と組長の娘、それとアルジという人物。
他にもメンバーがいると思うけどな」
ソファから、転げ落ちそうになるのを堪える。
女だけでなく、武史までアルジと繋がっていたとは。
衝撃と怒りで言葉が出てこない。
「アルジが組長の娘に近づこうとしたのも、薬の強奪を見越してだろうな」
最初から、アルジの計画通りに進んでいたということか。
「ということは、武史を殺したのは日高なのか?」
消え入りそうな声で、綿貫へ質問する。
まるで自分が、アルジの掌の上で操られていたような気になる。
綿貫がゆっくりと頷く。
「売人を殺したのも、全てはブツを盗んだことに対する報復ということか?」
「その通りだ。今回の一連の殺人は、日高によって行われた。
全ては、組長からの命令で動いていたらしい」
日高の疲弊していた顔が脳裏に浮かぶ。
あの時、日高は何を思っていたのだろうか。
舎弟に対する愛情を、少しは持ち合わせていたのだろうか。
頭が混乱し、視線が定まらなくなる。座っているのもやっとだ。
「組長が自供したのか?」
「あぁ、泣きわめきながら娘の名前を呼んでいるよ。
一体、娘は何処へ行ったのか…」
首を傾げながら、綿貫が言う。
「生きているのか?」
「だと思うけどな。娘だけは生きて連れ戻すこと。
それも命令していたみたいだからな。
日高が血迷って、殺した可能性も無きにしもだがな」
ふっと綿貫が鼻で笑う。
いままでバラバラになっていたパズルのピースが、少しづつ繋がり始めた。
そのパズルが描き出す姿は一体何なのか?
売人の死体が発見された洞窟で、女の死体だけ見つからない理由が分かった。
きっと、日高によって運び出されたのだろう。
日高は既に娘が死んでいる事を、なぜ組長へ報告していないのだろう?
組長に対する配慮なのか。
「殺された売人もアルジと繋がっていたのか?」
「それが分かっていない。ただ雇われていただけの可能性もある。
日高はアルジの情報を聞き出すために、無茶をしたということだな」
残ったコーヒーを愛おしそうに見ながら、綿貫が言う。
僕の前のコーヒーは、一切手が付けられないまま冷え切っている。
「アルジの目的は何なんだ?」
「そこまでは、本人に聞いてみるしかないな。
今回盗まれたブツを金に換算すると、数億円程度になるらしい」
おどけたような表情になり、綿貫がこちらを見てくる。
犯罪者の考えなど、理解したくないとでもいうようだった。
そんな大金で、一体何をしようというのだろうか?
日高が、金が最終的に兵器になると言っていた話を思い出す。
荒唐無稽な想像が膨らみ、それを笑いながら消し去る。
「日高の行方は分かっているのか?」
「今、全勢力をあげて捜査しているよ。
県外への全ての道に、検問を仕掛けているところだ」
最後のコーヒーを飲み干し、綿貫が答える。
そんな状況で、よくこんなにも悠長に構えていられるものだ。
「こんな所でゆっくりとお茶していて良いのか?」
こちらから呼び出したにも関わらず、そんな言葉が口をついて出る。
「まぁな。俺もある程度偉いからな。
そこら辺の雑事は、下の者に任せるよ。
そうしないと、下も育たないからな」
笑いながら、マスターに追加注文をする。
本当に大丈夫なのかと、自分のことを棚に上げて心配する。
そういえば、自分の今後の処遇について連絡がない。
連絡と言えば、昨日に酒井からあったぐらいだ。
「太田警部、大丈夫ですか?」
酒井の甲高い声が、耳に響く。
質問の意図がわからずに黙っていると、矢継ぎ早に話してくる。
「まさか、自分が取り調べを受けるなんて思っていないですもんね。
やっぱり、傷つきますよね。角田さんも心配していました。
良ければ、一緒に酒でも呑みましょう。愚痴なら、いくらでも聞きますから」
声の調子と、言っていることの差に違和感を覚える。
本当に自分のことを心配しているのか?
エリートコースから脱落する者を見て、いい気になっているのかもしれない。
そんなことを考えていた。
「僕らのことなら心配しないで下さいね。警部がいなくても何とかやってます。
これから、例の事件で僕たちも駆り出されるみたいです。
落ち着いたら、呑みにでも行きましょう」
こちらの話を聞かずに、一方的に電話を切られる。
一体、何が目的で電話をかけてきたのか。
結局、自分の聞きたいことは聞けないままだった。
どのタイミングで、通達が降りるのか。
あるとすれば、今回の事件が解決してからだろう。
不通音が遠く聞こえる中、暗くなった画面を見る。
女が笑いながらこちらを見ているようだった。
この期に及んでも、我が身を心配する自分に嫌気がさす。
なぜ、警察という職業にしがみつこうとしているのか?
安定を望んでいるというのか。そんなはずは無いはずだ。
元々、自分は世界の枠組みで生きるべき人間では無かった。
悪への境界を簡単に乗り越え、その中で生きてきたはずだ。
アルジという人間に弄ばれた故に、足元がぐらついていた。
確固たる自分という物が、簡単に崩れ去ってしまったのだ。
必死の思いで、自己を保とうと自分を鼓舞する。
きっと大丈夫だ。警察を辞めたとしても、この頭があれば何でも出来る。
耳の奥で嘲る声が響いてくる。その声は女の物か、それとも…。
「おい、大丈夫か?
体調でも悪いのか?」
綿貫が眉根を寄せながら聞いてくる。
突然、携帯の着信音が鳴り響く。
綿貫が、内ポケットから取り出し話を始める。
手持無沙汰で、冷え切ったコーヒーを飲む。
この味が旨いのかどうか、自分にはとうてい分からない。
「分かった、今すぐそちらに向かう」
長いこと話し終えた後に、倦怠感を募らせたように綿貫が言う。
何も言わぬまま、ゆっくりとコーヒーを飲む。
「日高が見つかったらしい」
少し困った顔で、綿貫が言う。
「これから、向かうのか?」
頷いた後、腕を組みながらテーブル越しに見てくる。
「お前を連れて行くべきかどうか」
何も言えなかった。自分がついて行って何が出来るというのか。
きっと何も出来ないだろう。足手まといになるかもしれない。
「お前の気持ちはどうなんだ?行きたいか?
何か日高に言っておきたいことは?」
綿貫から試されているのだと思った。
それが、何に対してなのかは判然としない。
警察としてなのか、それとも事件の当事者としてなのか…。
沈黙に耐えきれなくなった綿貫が席を立つ。
コートを羽織りながら、マスターに会計をするように目配せする。
会計後、振り返ることなく店を出ていく。