6章
携帯から不通音が虚しく鳴り続ける。
あの日以来、日高となかなか連絡が取れない。
一体、何をしているのだろうか?
こうなるのだったら、次に会う約束をしておくべきだった。一刻も早く、綿貫の話を確認したかった。
「さっき、クラブでの薬密売の話をしただろう」
とても言いづらそうに、綿貫が話し始める。
「その薬の出所というのが、どうやら大林組みたいなんだよ」
予期せぬ情報に混乱する。
この前、日高はそんなことは言ってなかった。
今になって思えば、詳細を良く知っていたと思う。
「おい、聞いているのか?
その様子からは、聞いて無かったんだな。
となると、やっぱりこの情報は正しいんだろう」
綿貫が納得したように、首を縦に降る。
「どういうことだ?教えてくれ」
鬼気迫る態度に驚き、綿貫が話し出す。
「あのクラブ一帯は、西武会が取り仕切っている。
おかしいと思わないか?
なぜそんな所で大林組のブツが売られているのか」
薬は海外の組織が関わっているという話だった。
あの日高の言葉は嘘だったのか?
「どうやら大林組が輸入したブツが、何者かに盗まれたらしい。それが、西武会の息の掛かった者に渡った。大林組は今頃、血眼になって盗んだ奴を探しているだろうな」
頭の混乱が収まらない。
急に嫌な予感が頭に浮かぶ。
売人の連絡先を教えてしまって良かったのか?
「大丈夫か?なんか顔色が悪いぞ」
それ以降の話は耳に届かなかった。
綿貫はそれを察して、売人の連絡先を僕から聞き出し、喫茶店を慌ただしく出て行った。
日高と別れてから、3日が経つ。
携帯には無数の不在履歴が残っている。
着信を待ちわびる中で、携帯が鳴る。
即座に取って応答するが、聞こえて来たのは綿貫の声だった。声の調子から、不安が現実の物になったのだと即座に分かった。
「発見されたよ。長身の男の死体が。
また、トランクに詰められていたよ。
お前、これから来れるか?
同一人物か確認して欲しい」
綿貫の声が無機質に響く。
自分がとんでもない事をしてしまったのだと、改めて気づかされる。
携帯を握る腕は力が抜け、だらりと垂れ下がる。
微かに聞こえる綿貫の声が、死んだ女の罵倒する声のように聞こえるのだった。
霊安室に横たわるのは、前回の売人だった。
あの時と同じ青白い顔が、暗い室内の照明で照らされていた。
「間違い無いか?」
隣に立つ綿貫が事務的な声で聞いてくる。
黙って頷き、綿貫が男の顔に白い布を掛け直す。
霊安室を出ると、2人の男が出口で立っていた。
綿貫から報告を聞くと、足早に去っていく。
僕は覚束無い足取りで、近くのベンチに座る。
綿貫が自販機で缶コーヒーを買う。
ガコンという音が静まり返った廊下に響き渡る。
隣に座り、コーヒーを差し出してくる。
「申し訳ない。
いくら知らなかったとはいえ、自分の失態だ。
謝って済むわけじゃないだろうけど」
綿貫が聞こえるほどの大きな息を吐く。
やらかしてしまった同僚に失望してしまったのか。
「終わってしまったことだ、仕方ない。
日高が何処にいるのか、見当はつかないのか?」
力なく、首を左右に振る。
正直、日高には数回会った程度だった。
何処へ住んでいるのかさえも分からない。
「問題は、前回の犯行も日高がやったのかという事。それと同じ場所で発見された、身元不明の遺体についてだ」
綿貫が何を言っているのか分からなかった。
日高が武史を殺すはずないだろう。
同じトランクで死体が遺棄されていたからと言って、同一人物の犯行であるという安易な考えには賛同できなかった。
また、同じ場所で発見された遺体とは何のことを言っているのか?
「遺体が発見された場所って・・・」
「神奈川の山奥の洞窟の中だ。匿名で連絡があったらしい」
綿貫の話から、女の遺体を隠した場所と同じである事が分かった。
動揺し、視点が定まらず目の前がぼやけてくる。
「身元不明の方は白骨化してしまっていてな。
大分前に遺棄されたものだろう。
ここまで見つからなかったんだ。
身元を割り出すのは骨が折れるだろう」
こちらの反応をよそに、綿貫が話し続ける。
僕が数年前に遺棄した死体だった。
まさかこんなタイミングで見つかるとは。
通報したのは、恐らく日高であるのは間違いない。
なぜ日高はあの場所を知っているのだろうか?
武史にも話した覚えは無い。
醜く笑う、男の顔が思い浮かぶ。
あいつが大林組と関係していたというのか。
「他には何か見つからなかったのか?
白骨化した遺体の身元に繋がるようなものは」
「あぁ、持ち物はおろか洋服まで剝ぎ取られていたからな」
どうやら女の遺体は見つかっていないようだ。
だとすれば、日高が持ち去ったのだろうか?
一体、何のためにそんなことをしたのだろう。
綿貫がコーヒーを飲み干し、ゆっくりと息を吐く。
「まぁ、今日の所は家に帰れ。
明日から、聴取が始まるんだ。
ゆっくり休んでおけよ」
優しく肩をたたき、去っていった男達と同じ方へ綿貫が歩いていく。
疲れ果て、ベンチから立ち上がれなかった。
自分は日高から利用されていた。
自分に対する怒りと失望で、体が言う事を聞かなくなっていた。
暗澹とした気持ちで目が覚める。
カーテンを開け、眩しい光に包まれても、心は曇ったままだ。
携帯を確認しても、日高からの着信は無かった。
勿論、綿貫には日高の連絡先は伝えてある。
上司からメールが入っていた。
今回の件についてだった。
捜査に協力するようにという言葉で締めくくられていた。
今日から、渋谷署での聴取が始まる。
聞かれるのは、日高や武史を含む大林組との関係性だろう。
女の薬が見つかった時、武史は全く知らないようだった。
その薬が、大林組から盗まれたものであるというのに。
知らないなんてことがあり得るのだろうか。
下っ端には伝えられていなかったのか。
ここまでくると、一体何を信じれば良いのか分からない。
現に、日高から利用されていたのだから。
昨夜は結局、床についてもなかなか寝付けなかった。
疲労がまったく取れていない。
頭痛も収まらないままだ。
こんな状態で、聴取に耐えれるのだろうか。
女の件は、何としてでも隠し通さなければならない。
それは、白骨化した遺体についても同様だ。
何か得体の知れない存在から、監視されているような感覚になる。
その存在から、自分が弄ばれているような。
そんな気にさえなる。
その存在がアルジという人物なのだろうか?
今のところ、関係性は見られない。
綿貫は携帯については何も言っていなかった。
中身を調べているかどうかも分からない。
あの携帯が明るみに出ると、後々まずいことになりそうな予感がする。
今になって、綿貫に預けたのを後悔する。
小さな少年が撒いた、お菓子を食べ終えた鳩の大群が一斉に空へ飛び立つ。
なんてことのない、ゆったりとした昼の時間が公園内に流れている。
目を移すと、噴水脇に座るカップルが楽しそうに談笑している。
それを見ていると、自分だけが取り残されたような気持ちになる。
快晴の冬空から降り注ぐ日光が、何よりも救いだった。
聴取は、昨晩の霊安室前にいた2人の男によって行われた。
当たり前だが、綿貫が顔を出すことは無かった。
先程、終わった旨を伝えようと連絡したが繋がらなかった。
もう、捜査情報を聞くことは出来ないのだろう。
仕方のない事だが、その事実がより一層僕の心を暗くさせた。
結局のところ、泥沼でもがき続けただけで、事件について何ひとつ分からないままだ。
アルジのことはおろか、武史が誰に殺されたのかすら分からない。
事件の真相は、綿貫を含む渋谷署の署員に任せるほかない。
自分の今後の処遇もどうなるのか?
もしかすると、警察を辞める必要が出てくるかもしれない。
そうなれば、自分はこの先どうやって生きていくのか?
泥沼に踏み込んだまま、暗黒の中へ絡めとられてしまうのだろうか。
そんな事を考えながら、昼間の公園のベンチに座りため息をつくしかない自分がいる。
事件の真相を知りたいとは思うが、それを恐れる自分がいる。
確かに武史を殺した犯人を知りたいとは思うが、その背景まで知りたいとは思わない。
犯行のためのピースの一つにされているのだとすれば、これ以上の屈辱はない。
綿貫は、日高が殺した可能性を言及していた。
普通に考えれば、そんなことにはならないはずだ。
だとすれば、何か理由があるのだろうか?
大林組のブツが盗まれた件と、武史の死が関係しているのだろうか?
武史も自分のことを利用しようとしていたというのか。
隠れていた、周りの人間の表層が剥がれ落ちていくようだ。
誰もが本性を隠してこの世界を生きているという事なのか。
事件の真相を知らないまま、どこかへ逃げ込んでしまいたかった。
何処から自分は道を踏み外してしまったのだろうか。なぜ、普通に生きれなかったのか。
そんな思いが、今頃になって自分を責め立てた。
どんなにそれを望もうが、後には引けなかった。
これが自分の望んだ道なのだから。
これは自分への罰なのだと思った。
罪を償うべき時が来たのだ。
だとすれば、それを甘んじて受け入れよう。
後悔などしても仕方がない。
噴水脇で話していたカップルが、公園を去っていく。
その後ろ姿が、とても眩しく見える。
今まで自分は悪なのだと思っていた。
善を嘲笑する存在なのだと。
ただ、今回の件でその考えは揺らぎ始めている。
自分は善や悪のどちらでもないのかもしれない。
中途半端な世界で揺らぎ続ける埃のような存在。
自分の存在価値は何処にあるのか?
ボロボロになった心と体で、この先どうやって生きていくべきか。
これまで考えもしなかったことが、頭に浮かんでは深いため息が出るだけだった。