5章
1週間ぶりに会う日高の疲弊は、一層増していた。
目の下のくまは濃くなり、虚ろな目をしている。
それ程までに、武史の存在は大きかったのだろう。
店内には、日高の心を表すような厳粛でゆったりとした音楽が流れている。
前回と変わらず、マスターがコーヒーを淹れている。
「大丈夫ですか? 体調悪そうですが」
目の前の日高は、違う世界に居るようだった。
「えぇ、こんなにも自分が弱い人間だとは思いませんでした」
自分を嘲るように日高が言う。その声はとても弱々しい。
「これまでにも、死に接する機会はあったはずなんですがね。
あの頃は鈍感だったのか、歳になり弱くなってしまったんでしょうか」
遠くを見るような目で、斜め上を見る。
何に思いを馳せているのだろうか。
「武史と出会った女が、薬を買っていたと思われる売人に会いました」
目を大きくし、日高がこちらを見てくる。
この日、初めて視線が合う。
「残念ながら、女については何も聞けませんでした。
だが、アルジについては何か知っている様でした。
調査をやめた方が良いと忠告してきました。
分かったのはそれぐらいですね」
日高の落胆が見てとる様に分かった。
そうですかと小さな声が床に落ちる。
「その男はきっと、中国の密売組織と繋がっています。
どうやら、北朝鮮から薬が入ってきているようです。
その金が中国を介し北朝鮮へ流れ、核実験へと使われる」
日高の憎しみの色が濃くなっていく。
テーブルに置かれた拳に力が入る。
「アルジは、その密売組織と関係あるんでしょうか?」
「いえ、分かりません。
色んな方面に当たってはいるんですが、なかなか尻尾が掴めなくて」
女の携帯にも、アルジに関する一切の痕跡は無かった。
どうすれば、辿り着けるのだろうか。
「僕の同期が、今回の事件の捜査をしています。
早く、状況に進展があれば良いんですが。
武史の事が、女の死に対する報復なのかもまだ分かりませんし。
今は、警察の捜査を待つしか無いのかも知れません」
日高は黙り、テーブルの上を見つめている。
降っていた雨が強くなり、窓ガラスを大きく叩く。
日高の状態が心配になる。
犯人が分かれば、真っ先に報復へ向かうだろう。
果たして、それを武史は望んでいるのか。
「その売人の連絡先を教えてくれませんか?」
日高が思い立った様に聞いてくる。
連絡先を聞いてどうするのか?
日高の考えが分からなかった。
「構いませんが、何をするおつもりですか?
既に連絡がつかないかも知れませんよ」
「それでも、何もしないよりはマシです。
ただ黙って、捜査の行方を見守ることなど出来ませんし。
一刻も早く、武史の所に良い報告をしたいので」
切実な顔をして、日高が言う。
その顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
連絡先を聞くと、雨の降る中傘を差さずに帰って行った。
その後ろ姿が、とても寂しく見えた。
日高の言う様に、このまま傍観などは出来ない。
自分に出来ることとは何だろうか。
出来ればこの手で、犯人を捕まえたい。
それが何よりも武史への報いになるだろう。
誰もいない店内には、雨音が鳴り響いている。
僕の心を急かすように、徐々に強さを増していく。
生活の中に違和感を抱き始めたのは、事件から10日が過ぎての事だった。
気づいたのは、ほんの些細なことだった。
郵便受けに入っていた広告類が、整理されていたのだ。
本来ならば、雑多に並んだ状態になっているはずだ。
何者かが、中身を確認したのは確実だろう。
郵便受けに鍵はしていないので、誰でも見れる状態ではある。
この機会に鍵をつけても良いが、そうすると相手に勘づかれてしまう。
だとするなら、このまま知らないふりをして泳がせた方が良いだろう。
相手の狙いは何なのか?
殺すタイミングを見計らっているのだろうか。
考えても何もわからない。
尾行されている訳では無いと思うが、ただ気づいていないだけなのかも知れない。
アルジの仲間によるものなのか、それとも違うのか。
綿貫などに警備を頼むにしろ、今の状況では手の打ちようが無いだろう。
まずは用心して、過ごす以外に無かった。
少しずつ、相手の行動はエスカレートして来た。
テーブル上のリモコンの位置を変えたままなど、調べていることを僕に伝えているように思えた。
テレビの映像が乱れることも、多くなっている。
盗聴されているのだろう。
ここまであからさまなのには、何か狙いがあるのだろう。
相手の目的は一体何なのだろうか?
ひとつあるとすれば、女の携帯だろう。
一通り調べては見たが、特に気になる点は無い。
何か特別な情報が、隠されているのかもしれない。
一旦、綿貫などに預けて置いた方が良いだろう。
理由を聞かれるだろうが、適当に誤魔化すしかない。
事件に首を突っ込むなと釘を刺されているので、不用意なことは言えない。
捜査の進捗も気になる。
それを理由に呼び出して、渡すしか無いだろう。
「捜査の方は進んでいるのか?
分かっていることがあれば、教えて欲しい」
ふっと笑いながら、綿貫が水を飲む。
「まだ犯人の目星はついていない。
被害者の足取りを調べている所だ。
死体として発見される前夜、ナイトビーチというクラブにいたようだ」
綿貫を見つめたまま息を呑む。
異変が顔に出ていないと良いのだが。
「被害者は1人だったのか?」
「それがよく分からない。
女と一緒だったという目撃情報がある。
その後の足取りが分からないままだ」
綿貫が大きくため息をつく。
中々進まない捜査に、ストレスが溜まっているのか。
マスターの挽くコーヒー豆の音が聞こえる。
日高と来た喫茶店で待ち合わせたのだ。
ここのコーヒーの味を、綿貫は気に入るのだろうか。
気づけば、綿貫がこちらをじっと見ていた。
どうやって聞くのか、言葉を選んでいる様に見える。
「気になってたんだが、お前に調査を依頼したのって誰なんだ?」
マスターが、コーヒーをテーブルに置き去っていく。
その間も、綿貫の視線は動かなかった。
全く頭が働かず、言い訳が思いつかない。
「大林組に知り合いがいてな。
その人から頼まれたんだよ」
「そんなことだろうと思ったよ。
そうだとするなら、安易に情報を教えられないな」
綿貫がこちらを試すような目で見てくる。
「まさか、聞いた話をそのままする様なことはしないよ。
それぐらいの分別はあるよ」
「犯人の目星がついたら、身柄を確保した段階で教えるよ。
先に手を出されたら、たまったもんじゃ無いからな」
綿貫がニヤついた顔になる。
僕の事を信じている訳じゃないのだ。
「まぁ、何で組の奴と親しいのかについては聞かないでおいてやるよ。
聞いても、どうせ教えて貰えないだろうから。
長い警察生活だ。色々あるだろう」
綿貫がゆっくりとコーヒーを飲む。
表情が明るくなり、味を気に入った様だ。
「それで頼みがあるんだが」
内ポケットに入れて置いた携帯を取り出す。
テーブルに置かれた携帯を一瞥し、綿貫がこちらを見る。
「悪いが、これを預かっておいて欲しいんだ」
先程と同じように、真っ直ぐに僕を見てくる。
携帯を手に取り、割れた画面に触れる。
「預かっておくのは良いが。
この携帯がどういうものかは知りたいな」
触っていた携帯をテーブルに置いて言う。
どう答えるべきだろうか。どこまでを隠し、話すのか。
迷っている間も、綿貫は視線を外さない。
「隠しておいて悪かった。今回の被害者とは面識があるんだ。
調査を頼まれたのが、被害者の親分的な存在でな。
実は、被害者が殺される前日に会ったんだ。そして、これを渡された。
理由を聞いても話さなかったので、俺もこれがどんなものなのか分からない」
綿貫はじっと黙ったまま、手を口元にやる。それが昔からの癖だった。
「この携帯を、どうやら狙っている奴がいるみたいだ。
俺の部屋を調べられた形跡がある。きっとこの携帯が目的だろう」
「それで、心当たりはあるのか?
この前言ってた人物と、何か関係があるのか?」
「全く分からない。
携帯を調べても、それらしい物は見当たらない。
相手がなぜ、この携帯を手に入れたいのか分からないんだ」
今の話で納得したのだろうか。
綿貫が腕を組みながら、ソファの背に凭れる。
「この携帯の事は、その親分とやらは知っているのか?
そもそも、何でお前にこれを託したんだ?」
「携帯の事は知らない。
被害者からも、口止めされた」
話の辻褄が合っているのか、不安になる。
女の事は、絶対に知られてはならない。
「被害者と会ったのは何時頃なんだ?」
「夕方ぐらいだな。正確な時間は覚えていない」
「確かに何か隠されている訳じゃなさそうだ。
だとすると、携帯の中にある情報だろうな。
相手の目的というのは」
再度、携帯を弄びながら綿貫が言う。
「そうだと思うんだが、メール等の内容も普通だった。
知らない奴には、分からないような仕掛けがあるのかもしれない」
「分かったよ。
少し気味が悪いが、預かっておくよ。
こっちで中身を調べてみても良いのか?」
「任せるよ。捜査の方も忙しいだろう。
預かって貰うだけで有難いよ」
「それとだな。少し言いづらいんだが…」
綿貫の表情が少し暗くなる。
その話の内容は、僕の心を揺さぶる物だった。