3章
アルジは泥水を吐き出すように、大きく息をつく。
どうしてこうも、他人は信用できないのだろうと。
それは、血がつながった者に対してもそうだった。
これまでの人生で、人を信じたことは一度も無かった。
アルジの中にある記憶。多くの死体が並んだ殺人現場。
腹部を刺され、倒れこんでいる人間達。
偶然、殺人事件の第一発見者となってしまったのだ。
施設で暮らしていた、中学生や小さな子供達。それを世話していた大人。
その人達が、無残にも殺されていた。
アルジは混乱し、本当は自分がやったのでは無いかという思いに囚われる。
犯人は、派遣社員として工事現場に働いていた男だった。
犯行の動機は、人生を壊してみたくなったということ。
現場監督に明日から来なくて良いと言われ、男は不要な存在だと気づかされた。
こんな人生に何の意味があるのだろうかと問いかけるが、何も答えは出ない。
歩いていると、笑顔で施設の運動場で遊んでいる子供達。
男はその存在を疎ましく思った。
なぜ、自分が不幸なのにあいつらは幸せそうなんだ。
こんなに社会に貢献しても、ゴミのように扱われる自分。
それに対し、希望に満ち溢れ、遊びまわる子供達。
不公平だと男は思った。
本来は不幸せな者が楽しそうにし、なぜ自分が不幸にならなければいけないのか?
男は包丁を手にし、施設内に乗り込み、多くの人達を刺殺した。
捕まった男の顔を、アルジは未だに忘れることが出来ない。
ただ、死体を見た時のアルジは、ふっと笑ったのだ。やはりこうなったかと。
遅かれ早かれ、こうなることは決まっていたと思った。
本当なら、自分が手を下すはずだったのだと。
施設での生活は、アルジにとって苦痛でしかなかった。
誰もアルジのことを理解しようとしないし、自身も交わろうとしなかった。
周囲も気づいていたのだ、アルジが醜い存在であるということを。
母は一人で、アルジを産み育てた。父親の話は聞いたことはない。
母は話そうとしなかったし、知りたいと思わなかった。
別に誰が親であろうと関係ないと思っていた。
母は美しかった。
顔の造形が整っているわけではないが、男を惹きつけるなにかを持っていた。
男を立て、その心の内にいつのまにか入り込むというように。
すらりと伸びた手足に、程よく膨らんだ胸。
母は男を利用して生きてきた。
最初の頃はスナックで働いていて、たまに家に男を連れて来ることがあった。
定期的に男は入れ替わり、母の彼氏なのかどうか怪しかった。
母はいつしか働かなくなった。男から生活費を援助して貰っていたのだ。
それを悪びれることもなく、母は堂々と生きていた。
「男は単純だからね。
ちょっとその気にさせれば、何だって言うことを聞いてくれる」
母はよくそんなことを言っていた。
そんなことを子供に対して言える、母の神経がアルジは理解できなかった。
ただ、その母の狡猾さによって自分は生かされている。
それだけは変えようのない事実だった。
それが影響してか、アルジは世間に対して疎外感を持つようになった。
欲しいものは、男が何だって買い与えてくれた。
初めは遠慮していたアルジも、麻痺してしまいそれが普通になっていた。
小学校から帰り、自宅アパートの前に立つと母の声が聞こえた。
初めて耳にする母のうめき声に、何かあったのだろうと不安になった。
玄関を開け中に入ると、見慣れない高級そうな革靴があった。
母の声は、ガラス戸を隔てた茶の間から聞こえる。
すりガラス越しに、母と男は裸であることが分かった。
一体何をしているのだろう?
怖くなり震える手で、戸を少し開けて中を見る。
母の後ろ姿が目に入った。
黒革の手枷で両腕を後ろ手に拘束され、立っている男の前に跪いている。
男の性器をくわえさせられ、悶えていた。
首には両手と同じ拘束具がつけられ、繋がれたチェーンは男の手にあった。
動物のように男の言いなりになっている母が目の前にあった。
あの強い母の言葉は一体なんだったのか?
言う事を聞かされているのは母の方ではないか。
その後も、見るに堪えない行為は続いた。
両足を拘束され露わになった母の性器を、貪るように男は責めるのだった。
母は何度も昇天し、男はその度に恍惚とした表情になった。
アルジは逃げ出したくても、その場から動けなかった。足に力が入らない。
これが罰なのだと思った。これまでの恩恵を受けたことへの償いだと。
母はアルジの存在に気づかなかったが、男は気づいていた。
目隠しをされた母が、後ろから責められている時に目が合った。
男はアルジを見て、口角を上げ、醜く微笑んだ。
行為を止めることなく、むしろ激しく母を犯して喜んだのだ。
いつの間にか、下半身に生暖かさを感じていた。
行為が終わり服を着ると、男が財布を取り出し、母に札束を渡す。
男は再度、アルジを見て先ほどと同じ顔で微笑むのだった。
必死の思いで、アパートから出て、階段脇に座り込む。
下半身の生暖かさは消えており、下着から冷たさを感じた。
黒い下着は白く、汚れていた。
アルジはこの時、初めて射精したのだった。
母を見る目が変わったのは、あの日からだった。
醜さの質が変わったと言うのか、繋がっていた糸が切れてしまったようだった。
あの日から、母親では無くただの娼婦になった。
お金のためなら、動物にでも成り下がる女。
そんな印象しか持てなくなっていた。
男に服従していた姿が、頭から離れない。
その度に、アルジの下腹部は反応する。
あの時の母の姿を想像して、自慰を行う。
行ったあとの脱力感の中で、暗澹とした気分になる。
母と自分は同類でしか無いのだと気付かされる。
いくら否定しても、体だけは素直だった。
体内には、母と同じ血が流れている。
そう思うだけで、死にたくなった。
周りを見る目が変わっていくのも感じていた。
母親の噂が子供へと伝わり、自分の生活の範囲にもそれは及んで来ていた。
自分を見ては、噂話をする同級生の親達。
汚いものでも見る目を向けてくる同級生。
アルジはそれを甘んじて受けるしか無かった。
母と自分は同類なのだから。
母はみるみる醜くなって行った。
内面だけでなく、男から金を引き出すために捧げていた体も劣化が進んでいた。
当然のようにして、男との関係も消えていった。
それも仕方ないのだと思う。
互いにそれだけの関係だったのだから。
母との生活は紛糾し、毎日の食べるものにも困る程になって行った。
そんな状況になっても、母は働きはしなかった。
プライドが許さないのか、過去の栄光にしがみつき、男に言い寄られるのを待っているのだった。
そんな日はもう、永遠に来ないと言うのに。
生活保護を受けることに、母は抵抗した。
みるみる痩せていくアルジに気づいた先生が、役所へ相談したのだ。
その頃は、学校から出される給食が唯一の食事になっていた。
母のやつれ具合も、見てはいられない程だった。
役所の男の質問に答える気力すら、母には無かった。
なぜ母は国からの保護を拒むのか、アルジには分からなかった。
男に弄ばれる方がマシだと、どういった思考回路でそうなるのか?
「このままですと、お子さんだけでもこちらで強制的に保護するしかありません」
母は答えることなく、ただ俯いているだけだった。
生活は改善せず、アルジは施設に入ることになった。
母が今どうしているのか?
生きているのかさえ分からない。
きっと、不要なプライドが邪魔して野垂れ死んでいるのだろう。
アルジは施設に馴染むことは無かった。
醜い娼婦の子供という呪縛から、アルジは逃れられなかった。
何をしていても、周りが奇異の目で自分を見ているような気がした。
生きるためなら何だってする、下劣で低能な母の子供。
母の卑猥な姿を夢想し、自慰するふしだらな子供。
一体自分という存在は、何なのだろう?
その言葉が頭の中を回り続けていた。
周囲との間に壁を作り、寄せ付けないようにしていた。
自分は汚れているのだから、その手で世界に触れることは出来ない。
そんな考えに囚われるようになっていた。
そして、あの事件。
自分を嘲笑していた皆が、血を流して倒れている。
その姿を見て感じたのは恐怖では無く、虚無だった。
やはり、そうなるのだと思った。
美しいものは消えてなくなるのだと。
自分のような醜い存在が生き続けるのだ。
美しい世界は、暗い存在によって引き立てられる。
そのために自分はいるのだと思った。
それが自分の存在意義なのだ。
そう思うことで自己を保とうとした。
自分を肯定し、世界を否定したのだ。
善悪があるのなら、悪の全てを引き受けよう。
悪こそが自分に与えられた道なのだ。
倒れた者達の顔を1人ずつ見て回った。
歪んだ顔や眠っているような顔。
そのどれもが、滑稽に思えた。
健全に生きようとも、死んでしまえば意味が無い。
どんなに醜くても、生き続けられれば良い。
他人を引きずり降ろしてでも、生きるのだ。
母の姿が思い浮かぶ。生きるために、男に跪いた女。
この時になって、母を少し理解出来た気がした。
その母でさえも、プライドは捨てられなかった。
それが邪魔して、助けをこう事が出来なかった。
全てこの場所から始まるのだと思った。
世界と決別し、強固な壁を作ろう。
誰も越えることの無い、堅牢な壁を。
アルジは次の施設でも変わりはしなかった。
周囲との間に壁を作り、関わらないようにしていた。
周りと自分では住む世界が違う。
白い画用紙を、ひたすら黒く塗りつぶすことだけを考えて来た。
黒を白に染めるのは出来ないが、白を黒くすることは出来る。
自分という悪で、この世界に影響を与えよう。
高校を卒業したアルジは施設を出た。
冬の空は、灰色の雲で覆われていた。
一方、アルジの心は透き通っていた。
心にあるのは、悪への強い想いだった。
施設の門をくぐり、一歩踏み出す。
小さな子供達が、目の前を通り過ぎていく。
目の前にある存在は、鬱陶しいほど美しかった。