お馬鹿さん
『シルク、シルクー』
たたっと軽快な足音を立てて駆け寄ってきた少女はシルクの側へ来るなり、袖をくいくいと引っ張った。
『なんですか、胡蝶』
シルクは自分の身長より高く積んだファイルの山を崩さないように、ゆくっりと胡蝶を振り返った。
その際に抱えていたファイルの山を持ち直して。
じゃらりと重い音を立てる黒い光沢を放つ手枷が手首に食い込む。
無意識のうちにシルクはそれへちらりと一瞬目線を落として。
この腕にこれがはめられてどれくらいが経っただろうかなどと、無表情の下で思った。
はめられた当時はとても重く感じていた枷の重さにもだいぶ慣れてきた。
痛みにも慣れてきた。
それが痣となってしまうことは百も承知だが、己では外すことは不可能なので致し方なくつけている。
まぁ、いわばこれは己自身が望んで科してもらった戒めだから外して欲しいだなんてそんなこと、思いもしないが。
だから、痣は一向にとれたためしがない。
ズキッとした手首の痛みに、胡蝶へ話しかけながら一方でそんなことを思う。
『ミルク、来たよー』
くいくい袖口を引っ張って胡蝶が無表情に言う。
伝えられたその内容に、シルクは半ば無意識に小首を傾げてしまった。
『あれ?…もう戻ってきてたんですか?確かさっき下界へ降りていってたような…気がしたんですが…』
そうして記憶の糸を辿って数分前のことを思い出しながら、胡蝶を見る。
すると、胡蝶はふいっと視線を逸らして首を左右に二回ほど振って、言った。
少しむっとした口調だった。
『知らねーあるヨ。けれど、ミルクは仕事早いあるからねー』
よく見ると眉間に皺がよっている。
シルクを見上げながら、ずるいある!と頬を膨らませる。
これが僅かな、普段はほとんど無表情か意地悪げな笑い方しかしない胡蝶の子供らしい一面に自然と笑みがこぼれる。
普段が普段なだけにこういう一面はとても可愛らしい。
つい頭を撫でたくなる。
が、実際に行動に移そうとした右手は生憎と重い重いファイルで塞がれていた。
とてもではないがシルクの腕力では片手では太刀打ちできそうにない。
いま右手を欲望のままに胡蝶の頭へと伸ばしたのなら、即刻シルクは抱えていたファイルの山に埋もれてしまうだろう。
それが安易に想像できて。
シルクは苦い思いでしぶしぶとそれを行動に移すことなく断念した。
あ~…頭撫で撫でしたかった…!
仕方なく心の中で叫ぶだけに留まっておいた。
我ながら賢明な判断だった。
『私達とは訳が違って渡してくるだけですからねー。比較的楽で簡単なお仕事ですからねー』
『言われてみればそうあるなー。私らいつも結構てこずるのにヨー』
『私達は色々面倒な役目背負ってますからねー。で、仕事したらそれはそれで死神にまた睨まれちゃうんですよねー、私達って』
不意に背後のほうで嫌な気配がしだした。
それは胡蝶も同様だったようで、声にさっきまでとは全然違うドスが効きだした。
多分、自分たちを毛嫌いしてくる嫌な種族の気配が近づいてくるので苛々し始めたのだろう。
『超理不尽ある』
腕を組んで傲慢に大仰に声量を上げて吐き捨てる。
『ですよねー。これが私達に与えられた仕事だっていうのに』
シルクもそれに便乗してわざとらしく、大きなため息をついて肩を竦めてみせた。
『そこらへん聞き入れてくれないあるよねー…まったく、どうにも理解能力に欠ける奴等よ』
『同感です。どこに耳つけてるんですかって、思いますよ』
近づいてきていた嫌な気配がシルクたちの背後でぴたりと止まったと、同時に背後から声が発された。
ああー、嫌な声っ。
『おい、俺らがなんだってよ?シルクさんよー』
しかし、内心不愉快極まりないけども、低俗な絡み方に眉を寄せるでもなく不快を露わにげんなりするでもなしに、シルクはあくまでもキラキラとした笑顔で対応してやる。
あははー、な ん で しょ う か ? こ の お 馬 鹿 さ ん が☆という具合にわざとらしく。
『おや、貴方は頭の悪い死神さんではないですか。いつからここにいらしてまして?』
お馬鹿さん、ぷぷー。
『お前は相変わらず人を小馬鹿にしたような物言いだな』
はて、小馬鹿?
貴方はやはりお馬鹿さんでしたか、この馬鹿が。
『おや、小馬鹿ですか…大馬鹿にしたつもりだったんですけどねぇ…。伝わらなくて残念です、とても。』
しゅんとしたように瞳を伏せてみる。
『ふん、この道化師が。相も変わらずひょろっこいな。女みてぇな容姿も相変わらず変わんねーし』
そしたら、けなされた。
まァ、そうでなくともけなされてたと思うが。
『私は男ですよ。ね、胡蝶』
『そうある。どこからみてもちゃんとついてるじゃねーかヨ!このハゲっ!』
『はっ!この格好で男だって言われても誰が信じられるかってーの!ひらひらの赤いドレスなんか着やがって、お前完璧どこからどう見ても女だろーが』
『はっ!男だろうが女だろうが似合ってるならそれでいいじゃないか。ここでは性別なんてたいした問題じゃない。あるようでないようなもんだろうが、バーカ。キレイならそれでいい。見るに堪えないお前らとは違ってシルクは何着ても似合うからな。お前みたいに醜くもないしな。何だ、その服のセンスはよ。ダサいにも程があるってもんだろ』
そう言いながら書類片手に現れたのは同僚のミルクだ。
身長は約165センチ。
さほど長身ではないが、シルク同様のスラリとした手足を持つスレンダー体型。
後ろは短い黒髪だが、前髪だけは無造作に伸ばし放題であごのラインを少し超すほどの長さ。
それを鬱陶しいのならば切ってしまった方が楽だとは考え付かないのか、それとも何か変なポリシーがあるのか一向に切る気配も見せずにいつもピンで右耳にかかるように留めている。
そして、彼もまた死神にひどく嫌われていた。
もちろん、理由なく嫌われているのではない。
死神側にもそれなりの理由があった。
シルクたちの仕事は半ば死神の仕事の邪魔というか、横取り的なことをしてしまうシステムの上に成り立っている。
だからといって、シルクたちを責められてもまた困る話なのだ。
この仕事は神に必要とされて自分たち三人に与えられた大事な仕事であるからだ。
人の命を扱うという点においても、それは互いに同じだ。
ただ、死神の仕事を奪うのではない。
望んで奪うわけではない。
誰が望んでこんな睨みあいをするものか。
第一、正確に言うと奪ってはいない。
これが自分たちの仕事であると示されているからだ、上から。
できるならば誰かの仕事に干渉は余りしたくないのはこの世界でも同じだ。
争いごとはご免被る。
だが、ただ結果的にというか、まぁ、双方とも人間によるとばっちりを受けるわけで。
それによる衝突がさいさい起こっていた。
まぁ、一言に言ってしまえば人間の身勝手のせいで確執が深まるばかりだ。
『ミルク!早いですね、もう終わったんですか?』
『俺の仕事は割りと簡単に終わるからな。なにせ生きることを望んだ者に命の時間を与えにいくだけだし』
シルクは何冊かの分厚いファイルを片手に持ち替えて。
……は、やはり無理だったので胡蝶に何冊か持ってもらおうとしたら、ミルクがさりげなくシルクが抱えていたファイルのほとんどを横から奪い、代わって抱えてくれる。
『ぁ…ありがとうございます、ミルク』
彼のさりげない優しさに涙が出そうになった。
…あのファイルのせいで腕が折れるかと思っていたからなおのこと。
シルクはミルクから数枚の書類を受け取り、それにざっと目を通しながら言った。
「じゃあ、これはちゃんと提出しておきますね。手続きしてきます」