少年は大航海に旅立たない -4.96-
アキシロ カナエ がイベント会場から逃げ出したのは、イベントが始まる10分前だった。
私はいつものように、イベント開始前にアイドル達が待機している楽屋へと立ち寄った。
そこで彼女達に激励の言葉をかけ、緊張の面持ちの者へは冗談を言って和ませた。
楽屋を出ると次は舞台袖だ。
そこで、音響を担当するスタッフ達と最終の確認を行う。
今回のステージは地方の特設された、野外の会場であったため、音響にこだわった演出はほとんど行われない。
スタッフ達に行ってもらう作業も多くないので、簡単な確認を事前に渡してあるマニュアルを元に行う。
その最中、誰かが私の服の袖を引っ張った。
引っ張られる方に振り返ると、サエノキ アスカがとても不安気な表情で立っていた。
サエノキ アスカという女の子は普段私に声を掛けてこない。
だから、私はすぐに嫌な予感がした。
「どうした、アスカ。何かあったか?」
私はサエノキ アスカを怯えさせないように、優しく語り掛けることを意識した。
どうも、私の顔は普通にしていても怒ったように見えるらしく、特にサエノキ アスカは私のことを怖がっているように思う。
精一杯柔らかい表情をつくって語り掛けたつもりであったが、結局彼女は私の顔を見るなり、怯えた様子を見せた。
サエノキ アスカが”あのー…”、”えーっと…”と言葉を詰まらせているのを、私は黙って見守っていた。
恐らく何か声を掛けると、また一層萎縮してしまう予感がしていた。
サエノキ アスカはHMB48というグループの2番人気の女の子で、アキシロ カナエの様な快活な女の子ではなく、人見知りで物静かな子だ。
そのため、前に出ていくことを躊躇いがちで、アキシロ カナエの後ろに隠れてサポート的な役割をすることが多い。
しかし、歌唱や踊りの表現に優れており、何事も卒なくこなす。とても器用で才気に恵まれている子である。
あとは、アキシロ カナエの様なカリスマ性を備えていれば、間違いなくセンターの座はこの子の手にあったであろうと私は思う。
やかんに入った水がお湯に変わるほどの時間が過ぎたころに、ようやく彼女が私に告げた。
「カナエちゃんが、どこにもいないんですぅ」
少年は大航海に旅立たない -4.96- -終-