◇旅は利口な者をいっそう利口にし愚か者をいっそう愚かにすると聞くけれど。
港に近付くにつれ、皆の安堵混じりの歓声が湾内に響く。
しかし、俺は僅かな不安を覚えていた。
船から見えるモルダ島の港。グラナダのような大きさや華やかさはないが、石造りのどっしりとした建物が並び、それなりに栄えているかに見える。だが今は同時に、港の各所から幾筋もの煙が上がっているのも見えた。先ほど通った湾への進入口でも、左右の陸上に設けられていた防衛用の陣地らしきものに破壊の跡が生々しく残されていた。
海賊討伐艦隊の2番艦で艦長に就任していたマイクが言うには、俺たちの船が襲われていた時刻、モルダ島もまたガーゴイルの襲撃を受けたとの話だった。湾口が狭く、防衛には絶対の自信を持っていた都市カンカラは、想定外の空からの襲撃にかなりの被害が出たと聞いた。折よく、グラナダの艦隊が投錨していたのが幸いして、ガーゴイルを撃退できたとの事だった。そして、確証はないがと前置きした後に「海賊とガーゴイルとは繋がりがあると思われる。或いは、なんらかの方法で使役しているのでは」と言っていた。実際のところ、その海賊船を追ってる最中に、俺たちとガーゴイルの争いに遭遇したようだった。
そのマイクも今は、ミラキュラス号の検閲を終えた後は戦闘艦へと戻り、モルダ島の港に先導してくれている。
――海賊がガーゴイルをねぇ……。
前を航行する戦闘艦を眺めつつ、そのことについても考える。
『ゼノン・クロニクル』では開始時に選択できる職業の中に、魔獣を使役することのできる従魔士と呼ばれる職種があった。あくまで最速クリアのみを目指していた俺は、当然のごとく従魔士など眼中にはなかった。悠長に、魔獣なんぞを育ててる時間などなかったからだ。
そのことを思い出しタンガに尋ねるも、「馬鹿も休み休み言え、そんな危ないこと考えるやつはいねぇぞ」と返された。
ま、それも当たり前か。考えてみると、猛獣を使役しているようなものだからな。いや、それ以上か。ガーゴイルは、元の世界の猛獣と比べても更に危ない魔獣。現実の世界なら、そんな危ない考えを持つ人もいないか。
ここは『ゼノン・クロニクル』と似て非なる現実世界。つい、俺はゲームのように考えてしまう。しかし――あの禁足地と呼ばれる場所に現れたモノリスには、『ゼノン・クロニクル』を運営する企業アッシュルの社章が刻まれていた。或いは……。
そんな事を考えてる間に、ミラキュラス号はカンカラの港に到着した。
だが、桟橋の一部は崩落し、港に付随する倉庫群の一角は燃え落ちている。やはり想像していた通り、港の随所にも生々しい戦闘の痕が残されていた。
それでも、一斉に喜びにわく水夫たち。それを横目にチラリと眺め、またしても俺は複雑な気分に包まれる。
彼らには、この殺伐とした光景が日常なのかも知れないが、俺にとっては非日常。
もといた世界でも、世界中で紛争は絶えなかった。でも俺は、それを画面の中でしか知らない。だから、暮らしていた日本がいかに平和だったのかを改めて思い知らされる。
軽い振動にミラキュラス号が揺れ、桟橋に接岸した。
タラップが渡され真っ先に降りるのは、またしても――
「いっちばぁん!」
と、さっきまで常になく大人しかったカイナ。
姉カリナの手を引き港に降り立つと、きゃっきゃとはしゃいでジャンプを繰り返していた。
感情の振り幅が極端過ぎて、本当に面倒くさい娘だよカイナは。しかし、今回だけは分かるような気もする。今度の航海には色々と有りすぎて、さすがに俺も疲れたよ。
横に目を向けると、タンガが肩を竦めている。お互い苦笑いを浮かべ、「さて、俺たちもモルダ島に初上陸といきますか」と軽口を叩き桟橋へと向かう。
が、その時だった。
「よお、ヒューマン。どうやら、生きてたようだな」
桟橋から届く声。
そこで、俺たちを出迎えるように立っていたのは額にひと房の赤い毛を生やし、ふてぶてしく笑う男。
そう、そこにいたのは、またしてもあの赤カブトだったのだ。
だが俺に見えていたのは、それだけではなかった。
「タンガ、まずいぞ!」
先に降りていたカイナから、噴き出すように立ち昇る闘気の奔流、その気配が見てとれたのだ。
しかも、俺とタンガはまだタラップの途中。タンガは返事する余裕もなく飛ぶように駆け降り、俺もその後に続く。だが……。
――ち、間に合わない!
見つめる先で、
「父さんと母さんの仇!」
カイナが叫び声を上げると、隠し持っていた小剣を両手に握り締め、止める間もなく赤カブトへ襲いかかる。
この航海で、カイナも色々と鬱憤を溜めていたのを、赤カブトの出現で一気に弾けたのかもしれない。
カイナは、タンガに毎日鍛えられていただけあって鋭い動きを見せる。が、やはり赤カブトには通用しない。
赤カブトは、カイナの右手首を蹴り上げ小剣を弾き飛ばすと、もう片方の左手首を掴み捻り上げる。と同時に、頭突きを鼻頭へと入れたのだ。
赤カブトはそれを、とっさに目にも止まらない速さで、一呼吸でやってのけた。恐るべき手練の技。
仰け反ったカイナの鼻から、あふれる流血が飛び散った。
そこで初めて、赤カブトが背に負う大剣を抜き放つ。
「カイナ!」
俺の叫び声は、空しく宙にかき消えていく。
もう、スキルの秘匿とか言ってる場合でない。
とっさに、【瞬速】と【飛脚】のスキルを発動させる。が、その瞬間、赤カブトがこちらに視線を向けた。まるで、俺がスキルを使うのが分かったかのように。そして、赤カブトの金目銀目のオッドアイがギラリと光った。
俺には、そう見えたのだ。
途端に全身から力が抜け、ガクリと膝から落ちる。大きくバランスを崩し、タラップを転がり落ちたのだ。しかも、それは俺だけではなかった。タンガもまた、同じように転がっていた。
不恰好な姿で桟橋を這う俺たちに、またしても赤カブトの声が届く。しかも、嘲笑った調子で。
「不様だな、ヒューマン。もう少しできる男かと思っていたが」
ようやくの事で顔を上げると、目の前では――カイナも桟橋に這い蹲り、背中を赤カブトに踏まれ押さえ付けられている。そして抜いた剣の切っ先は、助けようと動き出したカリナの喉元に突き付けられていた。
――マ、マジかよ!
何が起きたのか分からなかった。いや、分かっていたが、それが信じられなかったのだ。
発動したはずの【瞬速】と【飛脚】のスキルが、急に霧散するかのように掻き消え、そのため大きくバランスを崩したのだ。
これはもしかして……。
――スキルブレイカーか!
それは『ゼノン・クロニクル』内で、都市伝説の如く真しやかに噂されていた話。あらゆる魔法や技能、果ては神々が起こす奇跡さえもキャンセルする事ができるスキルがあると。結局、誰も手に入れる事ができず、その実在も証明する事ができなかったスキル。俺も誰かがネットに流した戯言だと思っていた。それがまさか……。
ニンジャマスターは、素早さに特化した戦闘職。素早さ以外では、攻撃力や耐久力や魔力などの能力値で他の職種に比べて大きく劣る。だが、それを補っても余りある能力が、多種多様なスキルを複数同時に展開できることなのだ。そのスキルを、全てキャンセルできるのが『スキルブレイカー』。
俺にとっては、まさに天敵のようなスキル。
俺は愕然となり、赤カブトを見つめるしかなかった。
そこへ新たな声が届く。
「グース、何を遊んでいる!」
それは、感情がこもらぬ凍てつくような声音。
振り返ると、マイクが眉根を寄せ困ったような、怒ったような表情で俺たちを見つめている。
その横には、白銀の鎧で全身を着飾った新たな男性エルフが――いや、女性か。
横に立っていたのは、男装の麗人。
黄金色に輝く髪が、ふわりと風に靡く。細身の体に、鼻筋の通った端正な顔立ち。少し釣り上がる目尻は、意思の強さを示しているかのようだった。
そこにいたのは、グラナダで留守番するサラに負けず劣らずの絶世の美女。しかし、その顔の左半分は仮面に覆われ、異様な雰囲気を漂わせていた。
「姫さん、ちょうど良いところに来た」
そう答える赤カブトが、すっと剣を引く。とたんに、ぺたりと尻もちをつくカリナ。その全身は、微かに震えていた。そして、足元のカイナの首根っこを掴み、「ほれ、返すぜ」と、軽々と俺たちに向かって放り投げた。
素早く立ち上がるタンガが、悲鳴を上げて宙を舞うカイナを慌てて抱き止めた。
そのあいだ俺は、赤カブトから目を離さず睨みつける。
周囲にいた獣士たちも集まり、俺たちを取り囲む。
カイナの早まった行動で、とんでもないことになってしまった。
ここでサンタール家の名前を持ち出しても、切り抜けられるかどうか……。
そんなことを考えていると、赤カブトが俺を指差し。
「こいつが例のヒューマンだ」
「ほう……」
その言葉に、男装のエルフが興味を示す。
「お前が、サンタール家に現れたハイヒューマンか」
「……ん、何故それを」
氷のように凍てつく視線に、思わず声が掠れてしまう。
いや、その前になぜこいつが、ハイヒューマンの話を知っている?
あれは、禁足地で一度だけ語った嘘っぱちの話。知っているのも、あの場にいた者だけのはず。
――何故だ!
俺の疑問をよそに、男装のエルフは赤カブトへと顔を向けた。
「で、どうなのだ」
「それほど大したことねぇな。姫さんが心配するほどでもねぇぜ」
答える赤カブトが、俺を眺めながらまたふてぶてしい笑みを浮かべた。
途端に、俺への興味を無くす男装エルフ。
「やはり、戯れ言であったか」
と呟き、夕刻の迫る空を見上げた。
「もう時間もない。遊んでいる暇もないぞ。今から、この足でアグニの神殿に参る。グース、お前も付いて来い!」
俺たちのことなど、もはや眼中にないのか、後は振り返る事もなく歩き去って行く男装エルフ。
「へいへい、姫さんの仰せのままに」
軽口を叩きその後を追いかける赤カブト。が、途中でくるりと振り返る。
「そこの嬢ちゃん、俺は気の強い女は嫌いじゃねぇ。そうだな、あと四、五年もしたら相手をしても良いぜ」
カイナに向かってそれだけを言うと、後は笑い声を残し去って行く。
後に残された俺たちは、マイクからかなり厳しく叱責を受けた。だが、その間も俺は呆然とする事しかできなかった。