◇ホラー映画には耐性があると思っていたけれど。
夕闇が迫る森の中では、遠目にその人影がどういった人物か分からなかった。しかし、近付くにつれてその容姿がはっきり分かるようになると、思わず立ち止まり腰が抜けそうになる。
――こ、今度は屍食鬼かよ!
その人影は、蓬髪となった頭部の頭皮が所々捲れ上がり、その下の頭骨が見え隠れしていた。片方の眼窩からは眼球がぶら下がり、口辺から右頬に掛けては肉が溶け落ちている。その頬肉があった箇所には、白い骨が見え蛆が湧き、「あぁぁ……うぅぅ……」と、声にならぬ叫びを響かせ此方に迫って来るのだ。しかも近付くにつれ、強烈な腐敗臭が鼻に突き刺さる。
――リアル屍食鬼はえぐい。グロすぎだよ!
屍食鬼とは、アンデット系のモンスター。『ゼノン・クロニクル』内では、強い怨みを持ったまま亡くなった者が弔われずにいると、屍食鬼になるという設定だったはず。しかし、どちらかと言えば、駆け出し冒険者が相手にする雑魚モンスターに分類されていた。
だが……。
「ひぇぇぇぇぇ!」
俺は大人気ない悲鳴を上げていた。
とてもではないが、まともに相手にする気にはなれない。
そんな俺にはお構い無く、屍食鬼はずるずると体を引きずりながら、此方に迫ってくる。前に伸ばすその右腕は、手首から先が骨と化していた。
――現実でこんなの相手に出来るかよ!
だが、慌てて踵を返して逃げようとするが、足下にあった樹木の根に躓き派手に転んでしまった。それでも、痛みよりも恐怖の方が勝り、少しでも距離を取ろうと体を引きずり這いながら後ずさる。
そんな俺を見ても、屍食鬼は表情を一切変えず……ってか、顔の肉の大半が腐ってるよ。
目前に迫る屍食鬼から逃れる方法が何かないかと、俺は咄嗟に、【火遁中段 火焔陣】のスキルを発動させていた。だが、スキルが発動する前に、体の中から魔力がスゥと抜けていく脱力感と共に、軽い目眩に襲われた。
――あっ、まずい! 魔力が足りない!
俺は慌ててスキルをキャンセルして、魔力切れで遠退く意識を強引に引き戻した。【火遁中段 火焔陣】は、俺の職業『ニンジャマスター』の固有スキル『忍術』で発動するスキルだ。『忍術』には初段、中段、上段の三段階に分かれたスキルが存在する。当然、中段スキルは魔力が少ない今の俺では、まだ使う事が出来ない。
――ミスった!
焦ってスキルを使おうとすると、つい今が初期状態なのを忘れてしまう。
そうこうしてる間に、屍食鬼は猛烈な腐った匂いを撒き散らし、吐き気を催すほど近くに迫って来ていた。
――うげぇ! この匂いはたまんねぇ!
地面に転がり鼻を摘まむ俺に、屍食鬼が襲い掛ってくる。しかし、屍食鬼の動作は驚くほど鈍い。俺に掴み掛かろうと伸ばしてくる腕を必死に掻い潜り、手に持つ棍棒で屍食鬼の腹の真ん中辺りを突く。途端に棍棒は、なんの抵抗も無く腐った腹にぐちゃりとめり込んだ。
――うぅわっ!
その腐敗して柔らかくなった肉の、異様な感触が手のひらに伝わり、思わず棍棒から手を離してしまう。
だが、一撃を喰らった屍食鬼は、突かれた勢いで後ろに引っくり返っていた。その間に、転がるようにして屍食鬼から一旦距離を取る事が出来た。
――落ち着け、落ち着いて対処すれば大丈夫だ。
自分にそう言い聞かせ、僅かに残っていた魔力で【アイテムボックス】を開く。そこから取り出した霊薬を、慌てて飲み干す。とたんに、体力魔力が体中に漲った。
霊薬は体力魔力の全回復は勿論、状態異常まで治してしまう。その上、一時的にではあるが、ステータスまで若干底上げしてくれる。そのため、ゲーム内では最高級のレア回復薬であった。
今の俺には、少々勿体無い気もするが仕方ない。それに、《ソーマ》はアイテムボックスの中に、まだまだ沢山残っている。というか、霊薬以外は持っていなかった。カンストしていた俺には、生半可な回復薬では余り役にたたない。体力や魔力が五桁に達していたのに、百や二百回復したところで大した変わりはなかったからだ。それに、ゲーム後半に入ると、一撃で此方の体力を、三桁も削る敵はざらだったのもある。だから、レア回復薬の《ソーマ》しか持っていなかったのだ。
だが、魔力や体力が戻ったといっても、まだ危機が去った訳ではない。
『グゥルルルルゥゥゥ』
目の前では屍食鬼が低い呻き声を上げて、またしてもズルズル体を引きずり此方に向かって来る。
こうなったら、気持ち悪いだとか、嫌だからとか言っていられない。ゲームと同じように動けば、必ず倒せるはずだと自分に言い聞かせ、覚悟を決めて屍食鬼と向き合う。
「屍食鬼は雑魚モンスター、屍食鬼は雑魚モンスター……」
俺は呪文のように何度も呟きつつ、まずは【身体強化】のスキルを発動させた。能力の向上を図り大きく飛び退き、屍食鬼から更に距離を取り様子を窺う。
【身体強化】は、素早さに特化した【瞬速】と違って、ステータス全体を二割アップさせる事が出来る。能力値の低い今の俺には、此方の方がありがたい。
リアルになった分、見た目は恐ろしげになったが、やはりゲーム内の時と同じく動き自体は緩慢だ。確か、炎に弱かったはずだったが……ここが『ゼノン・クロニクル』と、どんな関連があるのか分からないが、試して見る価値はあるだろう。
――まだ魔力はいけるか?
ここは手堅く、《忍術》のスキル初段を使う事にした。
「【火遁初段 火炎槍】!」
叫びと共に前に突き出した手のひらから、槍状になった炎が飛び出した。その炎が屍食鬼に突き刺さり、弾けて飛び散った。
『ぐぎぃぃぃぃ』
炎に包まれた屍食鬼は、断末魔の声を響かせ、そのまま崩れ落ちるように倒れた。
ぷすぷすと煙りを上げて燃える屍食鬼は、もはや起き上がる事は無かった。
――ふぅ、倒したか……。
ゲーム内では、雑魚モンスターだった屍食鬼に、これほど苦労するとは。ここが現実なのだと、嫌というほど思い知らされた。
俺が焼け崩れた屍食鬼に近付くと、ころころと黒い珠が転がり出てくる。手を伸ばして拾おうと触れた途端に、またしても黒い珠は霧状となり俺の体の中に吸い込まれていく。
「おぉっ!」
やはり、これが説明にあった魔素であり、これを取り込む事が経験値にあたるものになるのだろうな。体の底から沸き上がる力に、俺はそんな事を思っていた。
それにしても、ステータスウィンドウが無く、自分の能力値が分からないのは地味に痛い。もっとも、現実世界で人の能力を数字で表す事など、出来るとは思えないが……。
そして、燃え尽きて灰と成り果てた屍食鬼に目を向ける。
――強い怨みで魔物と化したかぁ……今度は迷わず成仏してくれよ。
体の前で合掌すると、俺は頭を垂れた。
しかし、あれだな。ホラー映画は割と好きだったが、現実の世界ではやめてもらいたい。アンデッド系のモンスターと戦うのは、もう勘弁して欲しいものだな。
だが、その願いは虚しくも、直ぐに崩れ去る事となった。
何故なら……。
その時、後ろから「ぼこり」と土が弾ける音が響いた。
俺は不審に思い、「ん?」と後ろを振り返る。
――えっ!
そこには盛り上がった地面から、半ば骨と化した人の腕が飛び出していたのだ。そしてすぐ横、右側からも「ぼこり」と弾ける音が聞こえる。
――えっ、えっ!
すぐ横の右側でも、土が盛り上がり人の腕が飛び出していた。だが、それだけでなかった。周囲のあちらこちらで「ぼこりぼこり」と土が弾ける音が鳴り響き、見る間にその数は数十を越えていく。
――えっ、えぇぇぇぇ! うそ~ん!
周囲の地面に無数の手足が現れると、盛り上がる土の中から数えきれない程の屍食鬼が、のそのそと起き上がってくるのだ。
――ま、まじかよ。洒落になってないぞ!
半ば半狂乱と化した俺は【火炎槍】を、乱発して逃げ出そうとする。しかし、倒す数より、出現する屍食鬼の数の方が断然に多い。たちまち、周りを屍食鬼に囲まれた。
――やばっ! しかもまた魔力切れだ。
焦って【火炎槍】を連発したため、魔力を使いすぎて僅かに意識が霞む。
まずい、もう【火炎槍】は使えない。
霊薬も、ある程度の時間をおかないと駄目なのだ。連続しての使用では、効果が現れないのだ。その事を思い出しつつも、ここはゲームと違う異世界だからと、念のため《ソーマ》を飲み干してみるが、やはり効果はなかった。
その間も、周囲の屍食鬼達は、ゆらゆらと体を揺らしながらゆっくり迫ってくる。
――ちっ、打つ手なしか……。
ここは強引に突破するしかない。だが、唯一の得物であった棍棒も、先ほどの火炎で燃え尽き焼失していた。
周りを隙間なく埋め尽くす屍食鬼を見て、顔をしかめる。
今の俺では、徒手空拳で突破するのは厳しそうだが、やるしかない。
覚悟を決め走り出そうとした時、頭上で「ぱぁん」と音が鳴り光球が出現した。そして、辺りを昼間のように明るく照らし出した。
『ぐぅぁぁぁぁ』
その明りに、屍食鬼達が唸り声を上げて苦しみ出す。
そこに、剣を振り回して屍食鬼を蹴散らし、三人の男が駆け込んで来た。
「おい、お前! こんな森の中で火魔法を使いやがって、火事になったらどうするつもりだ。しかも、この森に一人だと、お前馬鹿だろ!」
俺の前に駆け込んできた大柄の男が、怒鳴り声を上げた。その男は頭の上に潰れたような短い耳があり、その顔付きは何処か猫科の猛獣を思わせる。
そして眦を吊り上げ、俺を睨み付けていた。