◇蜘蛛の糸といえば救済だと思っていたけれど。
気が付くと、何処とも知れぬ森の中にいた。
――何処だよここは!
確か俺は、オンラインゲーム『ゼノン・クロニクル』の中にいたはず。
周りを見渡すが、鬱蒼と生い茂る樹木や、雑然と名も知れない植物が地を覆っている。そこは、全く見知らぬ場所。
――マジか……嘘だろ。
そこで、最後に聞いた運営からのアナウンスを思い出した。
――異世界転移とか、異世界ライフをお楽しみ下さいとか言っていたが……あり得ないな。馬鹿な話だ。
余りにも非現実な話に、俺は肩をすくめて首を振る。だが、明らかに周りの様子はゲーム内とは違う。周りの樹木や植物のディテールが、詳細に再現されているのだ。俺の知ってるゲーム内でも、これほどの現実感はなかった。それに匂いも……燦々と降り注ぐ陽の光を浴びた草花の、少し焼けたような青臭い匂いが鼻腔をくすぐ る。
どう見ても、リアルな世界にしか感じられない。そこから導き出される答えは、ひとつだけだ。
――やつら、俺に一億円を渡すのが惜しくなって、誘拐しやがったな。
VRMMOゲームである『ゼノン・クロニクル』は、運営会社が管理する施設で、ゲーム内へと入る事が出来る。そこにあるヴァーチャルマシーンと呼ばれるカブセルが、ゲームへの入り口だった。カプセル内ではヘッドギアを装着し、ベッドに横たわって睡眠状態になるのだ。だから俺は、その間に知らない森の中に放り出されたのだと、この時は思っていた。度し難い暴挙。こんなこと、許されるはずがない。
――こっから抜け出したら、絶対に運営を訴えてやる。
とはいってみたものの、見た感じ、どうも日本では無い気がする。それは周りの色鮮やかな植物相が、どう見ても南方系の植物にしか思われないからだ。こいつは下手したら、南米、あるいはアフリカ辺りの秘境と呼ばれるような場所にいるのかも知れない。そんな事を考え、ちょっと背筋が寒くなりぞっとする。
日本の山奥、或いは海外の秘境。どちらにせよ取り敢えずは、この森から脱出するのが先決。まずは、自分の持ち物を確認してみる。
着ている服は麻で出来ているのか、ごわごわとしたシャツとズボン。その上に革製のチョッキを羽織っていた。それに、腰を締めるベルトにぶら下がる、木の棍棒だった。
――こいつは何の悪い冗談だ!
どこかで見たことあると思ったら、何の事はない。ゲーム内での最初の装備だった。所謂、旅人の服という物である。
現実の世界では、かなり固い素材で動きづらい。
他には何か無いかと探るが、その初期装備以外には何も持っていなかった。
――絶対、運営の連中を訴えてやる!
心の中で、何度目かの運営への呪詛を呟く。
じっとしていても仕方ないので、俺は憮然としながらも歩き出した。が、周囲は密集した植物に覆われ、何処にも道はない。掻き分けて進もうにも、その取っ掛かりとなる隙間がないのだ。
まるでミステリーサークルさながらの、直径五メートル程の円形になった更地の中に俺はいた。まるで、緑の壁に囲まれてるようだった。
となると、俺はどこからここに運ばれたんだ。
――上か!
上空から……俺は上を見上げてギョッとする。
何故なら、そこには巨大な生き物が宙に浮いていたからだ。
――ジャ、ジャイアントスパイダー?
この更地の上に被せるかのように、樹々の間に巣を張り、その中央に巨大な蜘蛛がいた。
毛深い体は、赤と茶色の斑模様に覆われ、その大きさは俺より一回りは大きい。そして、頭部にある八つの目玉をグリグリと動かしていた。
――あり得ねえよ! 何だよあれは!
ここはやはり、まだ『ゼノン・クロニクル』の中なのか。ジャイアントスパイダーはゲーム内に於いて、駆け出しから卒業した初心者冒険者の最初の壁となる魔獣だ。だが、それはあり得ない。何故なら、やつの鎌のような牙が生える口元から、粘りつく白い液体がぽたりぽたりと落ちてくるからだ。余りにもリアル過ぎる。
――嘘だろ。マジかよ。
俺が驚き固まっていると、やつが糸を垂らして此方に降りてくるのが見えた。ジャイアントスパイダー? は俺に近付くと、突然素早い動きを見せる。八本の節足を動かし、俺に迫ってくるのだ。
俺は最前までいた『ゼノン・クロニクル』の感覚で、咄嗟に思わず、【瞬速】のスキルを発動させていた。途端に、体の中から何かが抜け落ちていく感覚に襲われるが、辛うじて、ジャイアントスパイダー? の襲撃を躱す事ができた。
――まさか……今のは、スキルが発動したのか?
カンストしたステータスで扱う【瞬速】のスキルは、その速さが亜光速にまで達する。だが今のは、トップアスリート並の速さしかなかった。とはいっても、現実の俺はトップアスリートではない。ごく普通のサラリーマンだ。スキルにしては妙な違和感を感じてしまう。
訳もわからず混乱する俺は、ジャイアントスパイダーに視線を向けた。
やつは、さっきまで俺がいた場所で動きを止め、八本の節足を動かし此方に向き直る。そして、八つの目玉をギョロリと此方に向けた。
リアルジャイアントスパイダーは、その獰猛な容姿から、見ているだけで恐怖を感じて奮えてしまうほどだ。
混乱して恐慌を来した俺は、知らず知らずの内に究極スキルを発動していた。
「【影分身の陣、千人掌】!」
その途端、ごっそりと俺の中から何かが抜け落ちる。それは、生命力といえるものだったのかも知れない。
しかも、周りで浮かび上がる影は千ではなくふたつ。そこから起き上がる俺も二人。俺と瓜二つな俺は、同じ旅人の服を着て棍棒をぶら下げた俺。
恐怖に浮き足立つ俺は、その事を気にする余裕もなく、棍棒を手に握り締め、めったやたらと振り回していた。当然二人の俺も同じく、めったやたらに棍棒を振り回している。
しかし、ジャイアントスパイダーが、ちょうど俺に飛び掛かろうとしていた時に、二人の俺が現れたのが好機となったようだった。突如現れた二人に、戸惑う 素振りをみせ動きを止めたジャイアントスパイダーに、うまい具合に二人の振り回す棍棒が当たった。後は、怯んだジャイアントスパイダーを、がむしゃらに殴打するだけ。
三人で囲み、ひたすら乱打する。そこには、技もスキルも関係ない。恐怖に震え、力の続く限り棍棒で殴り続けるだけだった。
精も根も尽き果て、がくりと膝を落とした時には、ジャイアントスパイダーが、もう動かなくなっていた。
両の手の平を地面に付け、肩を上下させて荒い息を繰り返す。そんな俺に、時間切れで二人の分身が収束して消滅した。
途端に、強烈な吐き気を催し、意識が飛びかける。
――くそっ、運営を絶対に訴える!
今日、何度目かの呪詛を吐き出した頃、またしても俺の意識が途切れてしまった。