**日目、Space color
病室の窓から、カーテンをふわりと押し上げて、夏の風が病室を満たしていく。
まるで、病室に充満する消毒液のにおいを風が優しく溶かしていくかのようだ。
この病室の主である彩木心也は、珍しく緊張した面持ちで、ある人物を待っていた。
目が見えない分、耳を限界まで澄まして、その人の来訪を察知しようと神経を尖らせている。
突然、カツンという軽い音が病室内に響いた。
神経を尖らせていた心也は、文字通りベットから飛び上がってから、音の聞こえた方向に恐る恐る手を伸ばした。
おそらく床に何かが当たった音だろうと推測し、床を撫でるように触れていく。
と、指先が何かに当たった。
思いきって掴んでみると、どうやら棒のようなものだ。鉛筆と同じくらいの細さをもつ丸い棒を、端から端までゆっくりと撫でていく。
ふわり。
柔らかいモノが、棒の先端に付いている。
そこで、心也はこの棒が何か確信し、次いで苦笑した。
触れたのは絵筆だった。ベットの上にあったのが、転がり落ちたのだろう。
今までだって絵筆を落とすことなどよくあったことの筈なのに、今日はいちいち敏感に反応してしまう。
「慣れないこと、するもんじゃないな」
ゆっくりとした動作でベットに腰掛けて、窓の方へと顔を向ける。
熱気を纏い、僅かな湿気を含んだ緩やかな風が、頬を撫でていく。
夏の香りがする。
そう思うのと同時に、病室の扉が開かれた。
看護師たちとは違う、優しい扉の開き方。微細な音の変化を敏感に感じ取り、心也は扉の方へと顔を向けた。
そして、にこりと笑う。
「待ってたよ。真白」
「まさか、心也の方から呼ばれるとは思わなかったよ」
そう言って真白は心也と向かい合うように丸椅子を持ってくると、そこに座った。
「あ、この椅子」
少し驚いた様子で、思わず真白は言葉を口に出した。
「ふふ、わかる?」
「うん。椅子、新しくしたんだね」
以前の椅子は、ずっと使われないままに錆びて、座るとぎしりと悲鳴をあげていたのだ。
なんだか嬉しくなって、真白は笑顔を心也に向けた。
椅子が新しくなったということは、両親が見舞いに来るようになったということだろう。両親との仲を復元できたということだ。
「まさか僕の描いた絵が、宇宙の絵になっているとは思わなかったよ」
「私も驚いたよ。モノクロの時は、全く宇宙には見えなかったからさ」
カラフルな世界で初めて心也の絵を見た時、真白は確かに彼の絵に見惚れていた。それだけ美しく、鮮やかな宇宙が描かれていた。
「……おかげで、両親との仲が治ったんだ。両親も僕のことを心配していたらしいけど、絵描きの息子が絵を描けないっていう状況がなかなか受け入れられなかったんだって」
ちょっぴり拗ねたような様子で話す心也。
ふふっ、と小さな声を漏らしながら、真白は冗談めいた口調で言った。
「心也も心也のご両親も、不器用ね」
くすくすと、2人で笑い合う。
それは、とても心地良い空間だった。夏の香りの湿気を含んだ、まとわりつくような温い風が、2人の間を巡る微かな感触さえ、愛おしく思えるぐらいに。
「で、今日は何でそっちから呼び出したの?」
真白の言葉に、心也がふと、真剣な表情を見せる。
「これを、渡したいと思ったんだ」
そう言って差したのは、文庫本サイズの、白木で出来た装飾の類の一切無いシンプルな箱。
「これは……?」
「開けてみて」
言われるままにゆっくりと、真白は箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、くるくると丸められ、巻物状になった紙と小さなミント色の巾着。
真白は何とはなしに巻物状の紙を手に取り、開いた。
かさかさと紙が触れ合う音が、2人の耳に痛いほど響く。
独特な緊張感が、2人を包んでいた。
「……これは!」
広げた紙には絵が描かれていた。
「せっかく描いた真白の絵だからね。プレゼントしたかったんだ」
少し照れたように笑いながら、心也は頭を掻いた。
真白の開いた紙に描かれた絵はまさしく、あの日、心也が真白を描いた時のものだった。
とても人には見えない。否、人ではない。真白という名の宇宙の絵。
真白は、胸の奥から温かい何かが込み上げてくるのを感じた。
「こっちの巾着も開けてみてもいい?」
「うん。もちろん」
爽やかなミント色をした、掌ほどの大きさの巾着の入り口を、優しい手つきで開いていく。
中に入っていたのは、これまた小さな粒。指の爪ほどのそれには、クリーム色のベースに黒い縦縞が入っている。
問うまでもなく、それは "向日葵の種" だった。
「僕、花を育ててるんだ。だから本当はさ、向日葵の花をあげたかったんだけど、数日前の台風で僕が育ててた花壇には、綺麗な花が残ってなかったんだ」
ごめんね。俯きがちに、小さい声で心也はそう呟いた。
「そんな。花じゃなくても私は嬉し……」
言葉が、途切れる。
一瞬、真白には何が起こったのかわからなかった。
ただわかったのは、唇に触れる柔らかな感触と、確かなヒトの温もりだけ。
するりと、心也が真白から離れていく。
熱が、消えていく。
「え……」
真白の口から出た言葉は、それだけ。
次いで、真白の鼻腔に、真白のものではない、どこか甘い香りが残っていることに気がついた。
心也と、目が合う。
「好きです」
心也のその言葉だけが、真白の停止した思考に刻まれるように、やけにうるさく響いた。
「真白のことが、好きです」
重ねて、そう言ったところで、心也はふいっと顔を真白から背けた。
正直、心也は限界だった。これ以上真白の顔は見ていられない。心臓が馬鹿みたいに早いスピードで打っているのを感じた。
一方真白は、心也の耳が朱に染まっているのを見て、やっと事態の全てを理解していた。
理解した途端に、頬が熱くなる。普段、真っ白な真白の肌が、目に見えて赤くなっていく。
「え、ああ。へっ、す、好き?」
明らかに取り乱し、わたわたとする真白の様子に、逆に落ち着いたのか、心也がクスッと笑った。
「うん。少し優しくされたから、とかじゃなくて。心から、キミが好きだ」
まだ耳先に朱を残しながら、心也は真白の方へと顔を向けた。
なんとも言えない恥ずかしさで、何も言うことのできない真白に、心也は言葉を続ける。
「僕、手術の為に海外に行くんだ。もう、会えないかもしれないから、伝えたかったんだ。僕の気持ち」
「手術……」
「うん。成功率は低めだけど……」
現実的な心也の言葉に、半ば止まっていた真白の思考が動き始める。
何の病気だろうか、なんて、考える余裕も無かった。ただ、心也の言葉に応えるための "答え" を弾き出す機械にでもなったかのように、思考は動き、口が開いた。
「私も」
「え?」
「私も……好き」
心也の様に、相手の顔を見ることができない。そんな自分にどこか焦りを感じながら、真白は精一杯、伝える。
自身の、思いを。
「心也が、好きだよ」
「……」
「……」
僅かな、沈黙が生まれた。
どこかくすぐったいような、そんな沈黙。
「……そっか」
心也の言葉に呼応するように、カーテンがふわりと揺れた。
夏の風は、向日葵の匂いがした。
「そっか、良かった」
「うん」
2人、笑い合う。
ほっとした笑いだった。
「僕、"真白" だけは見えるから」
「うん」
「僕、"真白"しか見えないから」
「うん」
「真白のこと、どこにいても、いつも、キミだけを見つめてるよ」
「……ばーか」
くすっ。
どちらのものともつかない、小さな笑い声が、病室に優しく響いた。
……END.
この話で、「宇宙色の見るセカイは」は完結です。
最後までありがとうございました。
見てくださった皆さんに、心からの感謝を込めて。
2015年 9月 17日 晴雨