2916日目、パステル
空色をしたプラスチック製のジョウロから雨が降る度、夏の太陽の光を浴びた雨が煌き、光を反射、分解して小さな虹が次々と出来上がっては消えていく。
赤、橙、黄、緑、水色、青、紫。大まかに確認できる色だけで7色。
小さいながらも確かな色彩を魅せるそれを見つめながら、真白は小さく微笑んだ。
今、世界は彩に溢れている。
色の消えたあの2年間。あれから8年が経った今では、あの時のことを皆 "色神の悪戯" と呼んでいる。
一体誰がそう呼び始めたのかはわからない。だが、色覚異常のあることを色神と言うことがあると聞いた。それに掛けたのか、それとも、神様に掛けたのか。或いはそのどちらもか。何にせよ、全く可笑しな名前である。
結局、色が消えた理由は不明だ。ただ一人、真白の父だけは何か知っている風ではあったが、いくら尋ねても答えが返ってくることは無かった。
ただ一言、真白に言った言葉以外には。
「世界には到底説明できないようなことが溢れてる……か」
とても答えとは言えない言葉。だがそれも真実。
世界には、到底説明できないようなことが溢れている。
それこそ。まるで、奇跡のようなことも。
真白は、確かにそう思う。
ポタリ、とジョウロから最後のひと雫がレンガで出来た花壇の上で跳ねた音を聞いて、自分が花に水を遣っている途中であることを思い出した。
花壇に咲くのは、大輪の向日葵。太陽に恋したように、大きな瞳で太陽を一心に見つめる花。
艶めく黄色の花弁が、キラリと日光を反射した。まるで、決して届かない距離にある太陽に、自身の存在を訴えるかのような煌き。
ふと、懐かしさと哀しさを同時に感じた。
気がつかないうちに、向日葵に自分自身を重ねていたらしい。
「歳かなぁ……」
あれから時は過ぎ、真白は今、25歳だ。優しい旦那と、3才の息子がいる。
今いるこの家は、つい最近買ったばかりの新築。まだまだうろちょろしたい盛りの息子は、今頃夫と一緒に物置の整理をしているはずだ。
しかし、未だに変わらない、変われないこともたくさんあるわけで。
その1つである大きな麦藁帽子をくいっと上げて、空を見上げた。
抜けるような青空。以前モノクロであったことなどまるで幻だとでも言うように、何処までも広がっている。
それに比べて相も変わらず真っ白な自分。色が戻るのと共に、自分にも色が着けば良かったのに。
ふと、紫外線対策にと着ている長袖の袖先が引っ張られる感覚を覚えて、そちらに視線を向けた。
袖先を引っ張るのは、柔らかく、丸みのある小さな手。真白の、愛しい一人息子だ。
「透」
透。それが、真白の息子の名前だ。
夜の闇を想わせる艶のある黒髪に、象牙色の滑らかな肌。色のある、可愛い息子。
「どうしたの?」
尋ねながら、小さな身体の見つめる先に合わせて膝を折った。
幼少期特有のキラキラとした真ん丸の瞳に、真白がくっきりと映し出される。希望に満ちた瞳を通じて自分自身の姿を見るのは、なんだかくすぐったいような感じがして、思わず笑みがこぼれた。
「パパがね、これ、ママにって」
いまいちよくわからない返答とともに差し出されたのは、文庫本くらいの大きさの箱。白木で出来た箱には装飾の類が一切無く、その代わりとでも言うかのように、ダイヤル式の錠が付いている。
真白はそれを見て、スッと目を細めた。
「これ、パパ開けてた?」
なるべく簡単な言葉と文法で、優しく問いかける。それは、透との日々ですっかり癖になった話し方だった。
優しい、母親の語り方だった。
「ううん、カギあけられないっていってた」
「そっか」
なんとはなしに、カチャカチャと音を立てながら錠を弄ぶ。
「懐かしいな」
決して錠の開け方を忘れたわけでは無い。
錠はよくあるダイヤル錠。4桁の数字を入れれば開くタイプのものだ。
そのまましばらく錠を弄んでいた真白だが、興味津々な様子で箱を見つめる透に気づくと、いたずらげな光を薄朱い瞳に浮かべた。
「透。この箱の中身、見せてあげよっか」
「うん!」
途端、透は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ元気良く返事をした。
「ちょっと待ってねー」
錠のダイヤルを回す微かな振動を指先に感じながら、目的のナンバーに合わせていく。
「ねえねえ、なんばんであくの?」
「んー、秘密」
「えー!ずるいよぉ」
「ズルくない、ズルくない」
カチャリと、小気味好い音を立てて錠が外れた。
箱を透へと向け、わざと勿体ぶってゆっくりと蓋を開けていく。
箱が完全に開いた瞬間、獲物に飛びつく獣のように、透は勢い良く箱の中に手を突っ込んだ。
小さな手が掴み出したのは、丸められた1枚の紙。
紙を留めてある紺色の紐を解こうと、苦心する透だが、上手くいかない。
透が自力でやるよう見守る真白だが、あまりにも時間がかかる様子に苦笑し、ひょいと透の頭上から手を伸ばし、紙を取り上げた。
少し不満気な顔をする透だが、自力で解けないことを分かっているのだろう。悔しそうにするだけで、文句は一言も言わない。
いざ紐に触れてみれば、成る程、固く結ばれている。
爪を紐の隙間に差し込み、少しずつ解していく。
一旦隙間に空間が空いた後は、紐が解けるまでそうはかからなかった。
「よし」
するりと解けると、紐は花壇に咲く向日葵の葉の上にふわりと落ちた。
巻物のようにくるくるになった紙を伸ばしながら、透へと紙を見せる。
「なにー、これ」
ちょこんと可愛く首を傾げて、紙を見つめる。
透のそんな様子に内心で和みながら、真白は満面の笑みで答えた。
「この絵にはね、ママが描かれてるの」
「ママが?」
「そうよ」
「えー、ママにみえないよぉ」
紙に描かれているのは、絵。それも、真白を描いたものだ。
しかし、透の言葉は間違ってはいない。確かに、それは真白には見えない。それどころか、"ヒト" にさえも。
その絵は、3才の透にはベットのシーツに絵の具が染みた跡のように見えていた。
いろいろな絵の具の色が混じり合い、全体的に黒に染まった絵。その中に、赤や青、紫といった色が所々に顔を覗かせ、確かな存在感を醸し出しているものの、あくまで脇役だと言わんばかりの控えめな目立ち方をしている。
「ふふ、透は宇宙って知らないもんね」
「うちゅう?」
「そう。お空のさらに上にある空間のこと」
うちゅう。宇宙。
まるで頭の中にインプットするかのように、透はその言葉をもごもごと何度も復唱する。
「これはね、ママという宇宙なのよ」
「んー?」
「透には難しいかなぁ」
そう、紙に描かれていたのは宇宙。
無限にも思える漆黒の闇。その中で美しく、力強く、可憐に光輝く幾千もの星たち。不思議な魅力を湛える、宇宙。
真白という人物を描いた、宇宙の絵。
それは紛れもなく、真白という宇宙。
「色は。全てのモノは、心で見るんだよね」
そっと、誰に言うでもなく、小さく呟く。
まるで薄くて脆いが、何よりも美しいガラス細工に、大切に、優しく、愛おし気に触れるような呟きだった。
透にはその呟きは聞こえなかったようで、透は今だに宇宙という言葉を繰り返している。
「透、この絵のことパパには秘密にしといてね」
「はーい!」
元気の良い返事を聞きながら、真白はどこまでも青い空を見上げた。
しかしその心に映るのは、青空ではなく。
きっと、遥か上空の宇宙なのだろう。