3日目、クリア
真白には日課がある。毎朝、自分で珈琲を淹れることだ。そして、今日も。珈琲を淹れる。
慣れた手つきで、台所にある流しの横の棚からガラス瓶を取り出す。中に入っているのは、イタリアンローストの珈琲豆だ。
ヤカン、細口のコーヒーポット、ドリッパーに、サーバー、そしてペーパーフィルター。最後に、お気に入りの白いコーヒーカップを用意。
お湯を沸かしている間に、コーヒーミルで豆を挽く。使っているのは、手動のタイプだ。
ハンドルを回す度に、豆と刃が触れ合い、軽い音と香りが部屋中に広がっていく。やや粗挽きくらいが、丁度良い。
挽き終わった豆をドリッパーにセットしたペーパーに入れたところで、丁度お湯が沸いた。白い湯気が、珈琲豆を見つめる真白の視界の端に映る。
沸騰したお湯を、ヤカンから細口ポットへと移す。100℃のお湯で珈琲を淹れてしまうと、良い味を飛ばし、雑味が出てしまう。その為、この行程でお湯の温度を少し下げてあげるのだ。
真白はこの行程が好きだ。ただのお湯を移す作業だと言ってしまえばそれまでだが、珈琲の味、珈琲豆の為に行動すると思うと、何とも言えない可笑しさが込み上げてくる。
まるで、美味しい珈琲の味を出してやるんだから、少しくらいワガママを聞いてくれと豆に言われているような気がするのだ。
ゆっくりとコーヒーポットを傾けながら、のの字を描くように湯を注いで、豆を蒸らしていく。
粉が膨らみ、徐々に乾いていく。小さい時は、この様子がハンバーグのように見えて、蒸らしの行程をハンバーグと呼んでいたのを、ふと思い出す。
そして、ここからが抽出。母が好きだった作業だ。
丁度良い細さのお湯を、優しく、先程と同じくのの字を描くように注いでいく。この時、決まって母は、豆と会話するのよ、と言っていた。
母が死んだわけでも無いのに、毎朝珈琲を淹れる時。元気だった頃の母を思い出す。そんな自分に、思わず苦笑が溢れた。
結局、寂しいのだ。初めての一人暮らしのような、この生活が。
出来上がった真っ黒な珈琲を、真っ白なコーヒーカップに注ぐ。いつもの珈琲の出来上がりだ。
カラフルな元の世界でも、白黒の珈琲。珈琲は、モノクロの世界でも変わらないモノのひとつだ。
優しくふんわりと漂う、香ばしい珈琲の香り。いつもと同じ香り。同じ色。
リビングの椅子に座りながら珈琲を飲んでいると、1枚の白い紙が目に入った。手にとって裏も見てみるが、何も書かれていない。近くには、色鉛筆があった。
何となく赤色と書かれた色鉛筆を手に取り、紙に丸を描く。更に緑色と書かれた色鉛筆で葉っぱを描き足す。
紙の上に描かれたのは、林檎。だがそれは、白と黒の濃淡だけで表現された、モノクロ。
「やっぱり色が無いとイマイチ、楽しくないな」
真白はその一言で思い出した。病室で絵を描き続ける、彼を。
何故彼は、モノクロの世界で絵を描き続けているのだろうか。
気になるのならば、聞くしかない。
「それに昨日は、上手くはぐらかされたしね」
決まってしまえば、行動は早い。
大きな麦藁帽子を頭に乗せ、靴を履きながら、横目で外にある紫外線測定器に繋がっているディスプレイをチェックする。
値が、いつもより高い。
小さく舌打ちをしながら、靴箱上のサングラスと日傘を手にとる。今日は、紫外線に対する完全防備が必要な日のようだ。
「いってきます」
誰もいない家に、真白の声だけが取り残された。
半ば躓くようにしながら、病院の自動ドアを抜ける。
日傘を閉じながら早足で受け付けに向かい、承認を得る。更にそのまま早足で歩き、階段に辿り着いたところで、真白は歩調を緩めた。
「ここまで来れば、たぶん、大丈夫」
ゆっくりとした足どりで階段を上っていく。
最上段に足をかけた時、冷房によってすっかり冷えた空気が、真白の頬を撫でていくのを感じた。
ここに来るのは、3回目。しかも3日連続だ。
看護師さんに、熱心にお見舞いに来ている人だと噂されるのも、時間の問題な気までしてくる。
だが、看護師は知らないだろう。真白が毎回、隣の病室の知り合いでも何でもない青年に合っているとは。
202号室。そう書かれたプレートの下部には、彩木心也の文字。
ドアに手をかけ、真白は躊躇うことなく、ドアをスライドさせた。
カラカラと、金属のレール上をドアが滑る音が、病室に響く。
「また、来たんだね。真白」
またも心也はこちらを見ずに、入ってきたのは真白だと言い当てた。
「うん」
しかしそんな心也の態度が、真白に対して嫌悪感を与えたりすることはない。
何故なら、真白の名を呼ぶ心也の声は、いつも穏やかなのだ。
真白を拒む様子の無い声に、真白はどこか安心した気持ちを知らず知らずのうちに覚えていた。
ドアのすぐ横の壁に日傘を立て掛け、大きな麦藁帽子とサングラスを外しながら、ベット脇の丸椅子に腰かけた。
心也は相変わらず、真っ白なスケッチブックのページに白黒の絵の具で、絵を描いている。
「あのさ、少し聞きたいことがあるんだけど、良いかな?」
「どうぞ」
キャンバスから顔を上げることなく、心也は返事を返した。
「色が無い世界で、どうして、絵を描き続けているの?」
ピタリと、心也の筆の動きが止まる。
「私、今日絵を描いてみたんだけど。色が無いと、イマイチ楽しく感じなかったの」
依然として、キャンバスを見つめながら。心也が、ぼそりと呟く。
「これは、運命なんだ」
「え」
「と、いうのは冗談で」
心也は勢いよく、顔を上げた。真白を見つめる心也の顔、表情は、真剣そのもの。
思わず、グッと呼吸を止めて、真白は心也の瞳を見つめ返した。
「ボク、絵を描く以外に生き方を知らないんだ」
そう言って、フッと表情を和らげた。
真剣な表情が突然なら、それが変わるのも突然だった。
心也の口角が上がっていた。口角が上がっていたから。心也は笑ったつもりなのかも知れないが、真白にはそれが、どこか寂しげな表情に見えた。
「ボクの両親は2人とも画家なんだ。特別有名では無かったけれど、お金持ちの固定のお客さんが数人いて、画家の仕事だけでなかなか良い暮らしをしてるんだ」
家は豪邸だったよ。お手伝いさんも居たし。そう小さい声で付け加えながら、心也は絵を描くのを再開する。
しかし話は、まだ終わらない。
「だからボクも、小さい頃から両親に教えてもらいながらよく絵を描いていたんだ。昔は絵が上手いってお客さんに気に入られて、ボクの絵も買ってくれてる人がいたんだよ」
「へぇー」
チラリと心也の描く絵を盗み見る。
失礼かも知れないが、そこに描かれているモノが何であるかはやはりわからないし、芸術的な絵だとは言い難い。
「だけど、病気になってから。こんな絵しか描けなくなったんだ。両親はボクの才能にかなり期待していたみたいでね、絵を描けなくなったボクに失望したって言ってた」
真白はハッとした。心也に初めて会った時、彼は真白に言っていた。
"この部屋にお客さんなんて、久しぶりだった" と。
「結局ボクは、両親に期待され、用意されていた画家へのレールから、今だに降りられないでいるんだ」
彩木心也。彼は、ヒトリだ。孤独だ。
真白なんかとは、比にならない程に。
「ごめんなさい」
真白の口から咄嗟に出た言葉はそんなもので。
「謝る必要は無いよ。ボクの事に興味を持ってくれたんでしょう?」
嬉しかった。そう言って笑う心也。
本当は、何かもっと良い言葉をかけてあげたい。だけど、真白には、彼がどんな言葉を望んでいるのかわからない。
あなたは1人じゃないなんて勝手なことが言えるわけも無い。だったら慰めれば良かったのか。いや、きっとそれも違うのだろう。
結局のところ、真白が何と言ったところで、その瞬間に言葉が、なんだかとってもチープなモノになってしまう気がして。
「うん。今日はもう遅いし、そろそろ帰るね」
「気をつけてね」
心也の声を背中に受けながら、真白は早足で病室から出た。
長袖の端を捲り、腕時計を確認する。時刻は、12時半。お昼どきだ。
なんて。
なんて、下手くそな嘘。