◇プロミス・アンド・オーダー
「おっ、おい! 祐未とノハ先輩やべぇんじゃねぇのか! 助けねぇと!」
奈月に拘束を解いて貰ったユトナがテオを見る。テオは、まっすぐに人質3人を見据えたまま低く呻る様に答えた。
「今動いたらなんにしろ人質が危ない。大人しくしていろ」
「でもこのままほっとけねぇだろ! ヴァレンタインたちを見捨てる気かよ!?」
「大人しくしていろ」
テオが唇を噛み締め、眉を顰めた。床に赤黒い染みがポタポタとたれている。強く握り込んだ指の爪が、手のひらの皮膚を破って出血していた。
「祐未がさっき、俺を見た――大丈夫だ……あいつらなら、大丈夫だ」
言い聞かせる様に、テオがゆっくりと言葉を紡ぐ。
それはユトナや奈月に対してというより、むしろ自分に対して言い聞かせているように聞こえた。
「大丈夫だ――あいつらは、俺が……世界で1番、信頼している人間だ」
◇
祐未の首筋でナイフが光っている。彼女を取り押さえる男は、ニヤニヤと笑って女の肌の上で刃物を踊らせていた。
ノハはまだ意識がハッキリしているが、ヴァレンタインのほうは朦朧としてグッタリしている。精神的なものも大きな原因になっているだろう。
祐未の着ていたシャツは、刺し傷から広がった赤い汚れで半分以上が染まっていた。水分を吸い込んで体積を増したあと、粗雑に乾いてごわごわした肌触りに変わっている。不快だ。傷口は妙な熱をもち、鋭い痛みと周辺箇所の痺れをもたらしていた。こちらも、大分不快だ。
女は1度大きく息を吸い込み、首筋のナイフを見る。
「なあ」
男がニヤニヤ笑ったまま祐未を見た。油断しきっている顔だ。まあ、腹に怪我をした女子高生が1人なら油断もするだろうと、祐未は冷静に考える。
「人質ならあたしだけでいいだろ」
男がバカにしたような笑みを浮かべ、ナイフの刃を立てた。祐未の首筋にチクリと小さな痛みが走る。
「バカ言うんじゃねぇよ。大人しくしてろ」
それからパシパシとナイフの腹で肌を叩かれる。冷たい衝撃が喉を襲い、咳き込みそうになった。
「頼む。ヴァレンタインもノハも満身創痍だ。解放してやってくれ。手当てしてやりたいんだ」
「つっても、勝手なことしたら俺がくずはに殺されるからなァ」
わざとらしく嘆いてみた男が、ナイフを祐未の首筋から話す。目元がいびつな笑みを浮かべ、祐未を捉えた。
「それに、それが人にもの頼む態度かよ」
鼻先にナイフをつきつけられた。全体が赤く濡れている。腹からでた祐未の血だろう。一瞬意識の飛びかけた彼女は、咄嗟に周囲を見回した。ノハとヴァレンタインは相変わらずナイフを突きつけられている。ノハにナイフを突きつけている男が楽しげに口笛を吹いた。それを、ノハが冷静に見上げている。
「お願いします」
ナイフを目の前に、祐未が正座をした。それから手のひらを膝の前につき、ゆっくり頭を下げる。
「あたしの友だちを、助けてください」
額を地面に擦りつけると、傷口から新しい血が出てきた。ゆるやかな痛みが傷口を襲う。
祐未の頭上で、男が笑った。
「うっそぉおん! 土下座しやがったコイツ! マジウケるんですけど! 生土下座初めてみたぁ!」
頭に軽い衝撃が走った。目の端でパラパラと土が降り注ぐ。おそらく、頭を踏まれているのだろう。
男が楽しげに笑い声を上げる。
「いーやーに決まってんだろぉおおぉおぉ!?」
額が床に押しつけられて痛い。別の男が笑い混じりに言った。
「っていうかなに、なんでいきなり土下座ショーはじまってんのぉ? お嬢ちゃん可愛そうじゃん」
祐未が目線だけで周囲を探ると、ノハを押さえつけていた男が、ナイフを持つ手で祐未を指差している。祐未を踏みつける男がゲラゲラと笑った。
「そんなことねぇーって! なあ、お嬢ちゃん?」
祐未の頭から足がどいて、代わりに髪を掴まれた。乱暴に顔をあげられ、至近距離に男の下卑た笑みがある。
「テメェは俺に、お願いしてる立場だもんなぁ?」
男につられて、祐未も笑った。腹が痛い。
「ああ、全然平気だぜ」
ノハの目線が動いた。ヴァレンタインを押さえつけていた男も祐未を見ている。
「テメェらみてぇなカスに土下座しただけで傷つくような、チャチなプライドは持ち合わせてねぇからな」
男の顔が不機嫌そうに歪む。けれど彼が行動するより早く、祐未の足が彼の横腹に叩き込まれた。男の身体が冗談のように吹っ飛び、壁に叩きつけられる。
腹の痛みをかき消すために、祐未は無理やり声を張り上げた。
「飼い主の指令は絶対実現させる! それがあたしのプライドだ! そのためになら、土下座だろうと泣き落としだろうと、なんだって怖くねぇんだよっ!」
◇
ノハの両親は、人の目を気にする人間だった。
ノハは学校で常に好成績を要求され、両親は子供の成績を外の人間に誇る以外で、子供を気にかけるということがなかった。
けれど人の目は気にするから、彼らはいつも、外の人間と話すとき、ありもしない話を作り上げる。
『先週は家族で海にでかけて』
そんなことは1度もなかった。
『誕生日のプレゼントを奮発しすぎてしまって』
自分の誕生日がいつなのかも、ノハはよく覚えていない。祝って貰ったことは1度もない。
『成績が良かったら、来週遊園地に連れて行ってあげる約束をしたんです。だから来週は、つれていってあげないと』
その約束が果たされることは、ついぞなかった。
両親がノハとの約束を守ってくれることは絶対になかった。そもそも約束をした覚えもなかったから当然なのかもしれない。
けれど本当はノハだって遊園地に行ってみたかったし、海にも行ってみたかったし、誕生日だって、祝って欲しかった。
いつからか、ノハにとって『約束』という言葉はとても特別なものになっていた。
両親が守ってくれない約束。だから自分は、せめて自分だけは、約束を守ろうと決意した。
そんなノハに、友人が『約束』という言葉を使わなくなった切っ掛けは、『遊園地』だった。
『チケット貰ったからいこうぜ』
と、友人の隆弘が言い出したのが始まりだ。1度も遊園地に行ったことのなかったノハが首を傾げて思わず尋ねた。
『それは、約束?』
きっと、無意識に両親とのことを思い出してしまったのだと思う。本当だろうかと、一瞬不安になってしまったのだと思う。
ノハの言葉に、隆弘が笑って答える。
『ああ、約束だぜ』
きっと彼にとっては軽い言葉だったのだろう。ノハの、昔守って貰えなかった約束なんて、隆弘もテオも知るわけがない。
ノハが――迷子になったまま、立ち止まっていた自分のもとに、やっと迎えが来てくれたような気がしていたなんて――彼ら2人は、知るわけがない。
だから、当日体調を崩してでも待ち合わせの場所に訪れたノハに、隆弘とテオはとても驚いた顔をした。
『おまっ、どう考えたって風邪ひいてんだろうが! なんで連絡しない!』
『だって……遊園地いくって』
『そんなこといってる場合か! 帰るぞ! 帰って着替えて薬飲んで寝ろ!』
『いかないの……?』
ノハが首を傾げると、テオと隆弘の動きが止まる。その時自分がどんな顔をしていたのか、当然ながらノハは知らない。
『約束、したのに?』
テオが、意識の朦朧としてきたノハの肩を軽く叩く。
『お前の風邪が治ったら行こう。来週ならどうだ?』
隆弘もノハの頭を乱暴に撫でて、笑う。
『ああ――約束だ』
その後、風邪のノハを代わる代わる看病した2人は、本当にその次の週、ノハを遊園地へ連れて行った。
それから彼ら2人は、ノハに『約束』という言葉を、言わなくなったのだ。
ノハが約束は必ず守ると知っているから、ノハが約束という言葉に並々ならぬ執着を持っていると知ったから、隆弘もテオも、ノハに約束という言葉を使わなくなった。
ノハの友だちは、そういう人間だ。
だからこそ、今日、隆弘がノハに言った『約束』はとても重い。
それだけ、困っているということだ。
友人が困っているなら、助けたいと思うのは、当然だろう。
――隆弘もテオも、なんでも自分で持とうとするから。
――僕は、女の子じゃないんだよ?
重い荷物を持っているなら、少しくらい持ってあげたってかまわない。
それが嫌ならじゃんけんでもしよう。負けた人間が荷物を持って、途中でまたじゃんけんをして、荷物をもつ係を入れ替えたりして、それで笑いながら、家に帰ろう。
いつもみたいに遊びにおいでよ。
――めったにしな約束なら、なおさら守るよ。
――当然だろう。君たちは、ちゃんと守ってくれたんだから。
ナイフを突きつけられたノハが、敵を盗み見る。敵の目線は土下座する祐未に向いていて、ナイフを持つ手で少女を指差している。
祐未が頭を踏まれ、髪の毛を乱暴に掴まれながらも敵を蹴り飛ばす。
同時に、ノハも動いた。
「……約束を守るのが、僕のプライドだ」
敵の目がノハに向く。彼が動くより早く、ノハは男に向って頭突きを食らわせた。
「がっ……!?」
男がたたらを踏み、折れた鼻を押さえて呻いた。ノハはその横っ面に跳び蹴りを叩き込んで地面に沈めると、負傷した足で地面を蹴り、ヴァレンタインの肩を掴んだまま驚いている男の脳天に踵を叩きつける。
負傷した足が、鋭い痛みに悲鳴を上げた。
ヴァレンタインの肩を掴んで乱暴に手元へ引き寄せた後、地面に倒れた男たちを見据える。
「友だちから貰った約束は――僕の、誇りだ!」