◇ビット・アンド・コール
「こっ、これなんなんスか!? ドア壊れてるんスけど!」
廃工場の入り口から、場にそぐわない間の抜けた声が聞こえてきた。灰色がかった銀髪を後ろに流し、バンダナを髪留め代わりに使っている。両耳ともシルバーのピアスを3つほどつけていて、チェーンピアスが微かに揺れていた。学ランの前をあけて、インナーの赤いシャツが見えている。身長は185cmと非常に高く、一目で不良とわかるあまり関わりたくないタイプの人間だったが、両手には大事そうに生菓子と思しき紙の箱を抱えていた。
周囲を見回し必死に現状を把握しようとするピアス男に向って、くずはが言う。
「ああ、やっと来ましたか。ええと、誰でしたっけ?」
どうやらくずはに名前を覚えられていないらしいが、ピアス男はまったく気にした様子もなく即答する。
「宮下です」
「そうですか。ここにいる部外者を全員追い出して下さい。人質がいて抵抗はできないはずですから、もう2度と刃向かう気が起きないように徹底的に痛めつけて下さいね」
くずはの言葉に、宮下は目を見開いて眉を顰めた。
「ど、どういうことッスかくずはさん!」
「言葉通りの意味です。俺のジャマをしたので、すこし痛い目を見て貰うんですよ」
どうせなら、殺してもかまいませんよ。
首を傾げるくずはに、宮下が泣きそうな顔をする。
「で、できませんっ」
「誰に向ってものを言っているんですか」
「できませんっ! 無抵抗の人間は殴れません! 俺にだってプライドがあります!」
宮下が必死に首を横にふる。どうやら、比較的マトモな価値観の人間らしい。ピアス男の言葉を聞いて何を思ったのか、くずはの片眉がピクリと跳ね上がる。宮下は壊れた扉の前で立ち止まり、ナイフを持つくずはを見据えた。
「く、くずはさん! じゃあ、この中の1人が俺とタイマンして、俺が勝ったら帰ってもらうっていうのはどうッスか? ゲーム、好きですよね!?」
くずはは左右違う色の目で宮下を眺めると、品定めするかのように眼を細めた。
「……プリンは、買ってきたんですよね?」
「もっ、もちろんッスよ! パティスリーカンザキのプリン3つ買ってきましたよ!? くずはさんこれ好きッスよね!?」
「ちょうど食べたかったところです。プリンを買ってきたなら、まあいいでしょう。好きにしなさい」
「あっ、あざっす!」
宮下が勢いよくくずはに向って頭を下げる。くずははつまらなそうに鼻を鳴らして宮下を見た。
「いいから、プリンを持ってきて下さい」
「うぃっす!」
紙箱を抱えてくずはに駆け寄った宮下は、乱雑に積み上がったビール瓶ケースの上に紙箱をそっと置いた。おそらくいつもそこに置くのだろう。
くずはが不機嫌そうに眼を細める。
「保冷剤がきれると嫌ですから、手早く片付けなさい。負けたら殺します」
「わかりました! 負けません!」
宮下が学ランを脱ぎ、床に放った。くずははぐるりと周囲を見回してゆるりと微笑む。
「聞いたとおりです。誰か彼と戦って、勝てば人質を解放しますよ。おもしろいゲームでしょう?」
くずはの言葉にツァオの体が動いたが、彼が宮下の前へいく前に上から肩を押さえられる。
「まちな。テメェじゃリーチが違いすぎるぜ」
黄金比という概念から祝福された195cmの大男――西野隆弘が宮下の前に歩み出る。彼は羽織っていたコートをテオに渡すと、惜しげもなく均整のとれた体をさらけ出し、右の拳を左の手のひらに叩きつけた。もっとも、シャツに印刷されたパンダのデフォルメキャラクターですべてが台無しだ。
宮下が一瞬戸惑ったような顔をするも、隆弘の挑発的な笑みを見てすぐ気分を入れ替えたらしく、彼も口の片端を歪めて獰猛な笑みを浮かべる。
「独活の大木じゃあなきゃいいけどな」
「こっちのセリフだぜチンピラァ」
お互い殺気だった視線を絡ませあい、笑みを深める。ツァオが歯軋りをして声を荒げた。
「おい! お前なんかに任せられるか! 俺がやる!」
彼が一歩前に踏み出すも、それ以上はくずはが目の前に現れて行動を阻害する。
「ダメですよ? もう対戦相手は決定したんですから、貴方は動けません」
ツァオの首筋をナイフの腹が滑って言った。気紛れにつきたてられた刃が薄皮を切り裂き、首筋に赤い線を描き出す。
「そこで黙って見ていなさい」
笑顔のくずはとは対照的に、ツァオは悔しそうに眉を顰め、低く呻った。
「……クソ野郎が……!」
「おやひどい」
くずはが肩を竦める。彼の大して気にしていなさそうな声が合図であったかのように、宮下と隆弘が同時に動いた。
「大人しく寝てろピアス野郎!」
隆弘の拳が空気を切り裂き、宮下の眉間目掛けて振り下ろされる。宮下は隆弘の拳を腕で弾き、男の腹部目掛けて蹴りを飛ばす。
「こっちのセリフだパンダ野郎!」
隆弘が飛んできた蹴りを抱え込んで振り回すと、宮下の体が吹っ飛び廃工場の壁にぶつかった。ピアス男が小さく呻く。
「ぐっ」
隆弘はすかさず敵にトドメをさそうと間合いを詰める。早く仕留めなければ、祐未とノハの状況は楽観視できない。大振りになった彼の攻撃の合間を縫って宮下が隆弘の懐に入り込み、下から男の首に左の前腕部を押しつけ巨体を壁に叩きつけた。隆弘の右肩に宮下の肘が食い込み、喉を圧迫された男が苦しげな息を吐き出す。抵抗のため強く握られた彼の左拳を、宮下の右手が押さえ込む。
「ぁっ……!」
薄く色づいたギリシャ彫刻の唇が開き、白い犬歯が覗いた。大きく息を吐き出した口元が、勢いよく宮下の耳元に伸びる。
「!?」
彼が状況を把握するより早く、耳元でブチリと分厚いなにかの切れる音がした。
鋭い痛みを全身が襲い、宮下が思わず耳を押さえてその場に蹲る。
「ぐっ、あぁああああああああっ!」
隆弘が口からなにかを吐き出した。床に転がった赤い固まりが、チャリンと甲高い音を立てる。赤の合間でところどころシルバーが光っていた。宮下のつけていたチェーンピアスだ。
「男の血なんか美味くもなんともねぇ」
乱暴に口元を拭った隆弘が宮下に近づく。蹲った男は一瞬隆弘を睨みつけ、耳を押さえていた手を大きく振った。
赤黒い液体が隆弘目掛けて飛んでくる。
コバルトブルーの瞳が赤い血に汚され、隆弘の視界が閉ざされる。
「この野郎っ!」
男が低く呻く。敵は好機とばかりに隆弘へ足払いをかけた。
重い音がして、逞しい体がコンクリートの床にたたきつけられる。
敵へ馬乗りになった状態の宮下が、やはり左腕で隆弘の首を肩を押さえた。右手は敵の左腕を押さえている。
隆弘の頬に赤い水滴がポタポタと垂れてきた。痛みを堪えてうっすらと目をあけると、間近に宮下の顔がある。
宮下は悔しそうに歯軋りをしたあと、呻くように隆弘へ囁いた。
「……このまま、帰れ! あとは俺が、なんとかする……!」
隆弘は食いしばった歯の隙間からうなり声をあげた。
「信用できるか!」
喉を圧迫する腕の力が強くなった。宮下の顔がますます悲愴に歪む。
「あの人はっ……加減が解らねぇだけなんだ! 道を踏み外さないように見守るのが、俺の役目だ……! 説得して見せるから! アンタの仲間は、俺が無事に解放する……!! アンタたちが仲間を守りたいってんなら、あの人を守るのが、俺のプライドなんだ!」
「プライドだぁ……!?」
隆弘が全身に力を込める。満身の力で自分を押さえつけている宮下の体を、ギリギリと押し返し始めた。
宮下の目が驚きに見開かれる。
「ならなんでこんなことになってやがる? なんで身体張ってでもとめねぇんだ? なんで殴ってでも引き留めねぇんだ?」
左腕を押さえつけていた腕を押し返し、右手が宮下の左腕を掴む。無理やり敵の体重を押し戻し、腹筋の力で起き上がった隆弘は、驚いた顔の宮下をコバルトブルーの瞳で睨みつけた。
「自分で決めたことも満足にできやしねぇ! テメェは結局中途半端なんだよ! そんな青二才に、この西野隆弘様が負けてたまるかっ!」
隆弘は1度、触れれば崩れそうなほど思い詰めた友人を前に、泣くのを我慢することしかできなかったことがある。
自分から壊れようとしている惚れた女を前にして、なにも背負わなくていいと、縋るように抱きしめることしか、できなかったことがある。
傷つく友人を前にして、傷つく惚れた女を前にして、なにも、なにも……できなかったことがある。
それは彼の人生に長らく汚点として残り続けるだろう。今更悔いても仕方のないことで、時間を戻すはずなどできないのに、今でも過去のことで傷ついている人間がいる。
隆弘の友人は、その傷ついている人間の傷さえ背負い、自分だけが傷つけばいいのにと、以前ぽつりと零していた。
――1番傷ついているのは誰だと問うても、彼はきっと、悲しそうに目を伏せて、そいつの傷を背負いたいと、言うのだろう。
――1番傷ついているのは、誰だ。
――1人で背負おうとしているのは、誰だ。
「……っ、もう2度とっ! ジュリアン・マクニールみてぇな奴の好きにはさせねぇっ!」
宮下を突き飛ばした隆弘は、その勢いのまま男の身体を蹴り上げ、腹を踏みつけた。乱れた息を整え、果敢に自分を睨みつけてくる宮下に対し同じように視線を飛ばす。
「寝言は寝てからいいなピアス野郎! テメェのうすっぺらいプライドなんざ、この俺の前じゃ屁みてぇなもんだぜ!」