◇悲劇には向かない日
腕時計を見ると、先程見た時から丁度10分が経過していた。葛城くずはは読んでいた本を閉じ、廃工場の一角に目を向ける。
「触るんじゃねぇええぇっ!」
少女が手を縛られたまま男を何人か蹴り飛ばしている。肩を押さえつけられた状態のまま、彼女はしりきに友人であろう茶髪のほうを見て叫んでいる。
「ヴァレンタイン! ヴァレンタインっ!」
名前を呼ばれた茶髪のほうは複数の男に囲まれて姿が見えない。足だけが不格好に揺れていた。
「やっ、やだっ、やだぁああっ! ひぐっ、うぅぅうぅっ!」
みっともない、ぐぐもった悲鳴が聞こえてくる。ズボンを半分ほど下ろして賢明に腰を振る男の姿を見て、くずはは男も茶髪も無様だなぁ、と思ったが、口に出すのも面倒だったので黙っていることにした。代わりに、10分たってもプリンが来ないので、さて捕まえた2人のうちどちらを壊そうかと思案しはじめる。
茶髪のほうは放っておいてもこのまま壊れそうだから、どうせなら活きの良いほうにするべきか。くずはが小首を傾げていると、外からバイクのエンジン音が聞こえてくる。通り過ぎるかと思ったが、その轟音はくずはの予想に反して、廃工場に近づいたあとさらに大きくなっていく。
――あれ?
突っ込んでくる、と直感で理解した彼は、しかしバイクが突っ込んでくる理由を理解できずに目を瞬かせた。
ガゴンと大きな音がして、青い塗装のバイクが廃工場の扉を蹴破る。甲高いブレーキ音とゴムの焼ける臭いがして、バイクに乗った2人組が廃工場を見渡した。
「っ! ユトナっ!」
ピンク髪のほうが金切り声を上げる。うるさいなぁ、とくずはは思った。バイクを運転していた黒髪ツリ目の男は、ぐったりした茶髪の姿を見て鋭い目つきをますます鋭くする。彼は乱暴に乗ってきたバイクを転がして、くずはたちを睨みつけてきた。
「――お前ら、殺してやる」
低い声に、男達が脅えた。くずはは肩を竦めて、茶髪の隣に立つ。誰も彼もくずはの計画をジャマしてばかりだ。この場で暴れられたら、プリンを食べる時間がもっと遅くなるし――壊した扉も、直さないと、雨が降ったとき吹き込んでくるだろう。そうでなくても海が近くて風が冷たいから、あの扉がないと廃工場はとても過ごしづらい。
人の隠れ家的憩いの場を、彼らはなんだと思っているのだろうか。少し仕返ししてやってもバチは当たらないだろう。
くずはは自分を睨みつける2人組に対してニコリと笑みを浮かべ、首を傾げた。
「物騒なことを言わないで下さいよ。怖いなぁ」
地面から、茶髪が脅えた目で自分を見てくる。視線がうっとうしい。ガタガタと震える茶髪の頭を、くずはの足が軽く蹴った。
「この人たちを迎えに来たんですか? よくココがわかりましたね」
茶髪が「ひぐっ」と無様な声を上げた。汚いなぁ、と思いながら、くずははまた茶髪の頭を軽く蹴る。黒髪の目つきがますます鋭く剣呑になっていき、殺気がその場に満ちていく。そういえば前にも似たようなことがあった気がすると思って、しかし思い出せないのでくずはは考えるのをやめた。
「お礼に、良いことを教えてあげますよ」
黒髪の眉がピクリと跳ね上がる。体勢を低くして臨戦態勢に入っていた。くずはが周囲の男たちに目配せすると、彼らは慌てて頷いて、黒髪とピンク髪を包囲するため移動を開始した。
くずはは笑顔を深めて、歌うように告げる。
「この子を可愛がってくれた人の中に、HIV感染者がいまーす」
さて、誰でしょーうか?
くずはの言葉を聞いて、茶髪の目が見開かれた。無様に、力なく横たわった足がガタガタと震え始める。
「ひっ……やっ……やだっ……やだっ……」
脅えた顔はますます無様だ。くずはは冷めた目で茶髪を見下ろす。壊れた機械のように、断片的な言葉を吐き出して、身体を震わせていた。痙攣のようだ。
くずはがクスクスと笑い声を上げる。
「あ、壊れたファービーってきっとこんな感じなんですね」
床に転がった少女が目を見開き、ピンク髪は微かに目を細めた。黒髪の男がくずはを睨みつけて、吠える。
「てめぇええええええええええぇえええっ!」
ビリビリと空間を震わせる怒号を、くずははニコニコ笑いながら聞いていた。