第1話 兄と妹 (最終話)
午後7時に電話があった。向井の娘からである。
それから、30分ほどで、彼らはやってきた。昼間やってきた男達も一緒である。
着くなり、妻と娘が部屋を見せろという。それでは、と源次郎が案内する。
源次郎は、遠慮するつもりで、入り口で待つことにする。
2人は、くるっと各部屋を一回りしただけで、10分足らずで部屋を出てくる。
そのときの状況も聞こうとしない。殆ど無言のままである。
昼間に来ていた会社の人間から詳細を聞いていたのかもしれないが、あまりにもそっけない、と源次郎は思う。
少なくとも、夫であり父であるひとが住んでいた部屋である。取り乱せとは言わないが、もう少し、感慨深いものがあってもよさそうなものだ。
「もう、よろしいのですか?」
たまらず、源次郎がそう声を掛ける。
「はい、結構です。お手間を取らせました。」と娘が言う。
妻の方は、その間も一切喋らない。涙もない。
気丈なのか、また、今起こっていることが現実として受け止められていないのか、それは源次郎には分からない。
そう言えば、この母娘がここに来るのは初めての筈。最初の入居するときも、向井と会社の若い連中が来ただけである。
向井が夏祭りの夜に話していた家族の中にある微妙なずれが、源次郎にも何となく分かるような気がする。
源次郎は、その部屋を出るとき、預かっていた携帯電話をそっと備え付けの下駄箱の上に置いてきた。
管理人室に戻ると、会社の男達が、美佐子との間で、家賃の精算や退去届など、一連の事務処理をそつなく片付けたところだつた。
明日、運送屋を来させて「ここを引き払う」と男達が言う。
こちらは、特に異存はない。
母娘は、管理人室に入ることもせずに、そのまま表に停めたらしい車に戻っていく。
美佐子がそれに気付いて、
「あの・・・・お茶の一杯だけでも飲んでいってください。」
と声を掛けるが、本人達に成り代わって、傍にいた男が、
「これから、明日の通夜、明後日の葬儀といろいろと準備もありますので・・・・」
とそれを遮る。
30分もいただろうか、複数の車の発信音を残して、辺りは急激に静かになった。
源次郎も美佐子も、ただ唖然とするだけである。
「あんなぁ、会社の人がさ、向井部長ともあろう人が何が良くってこんなちっぽけな所にいたんだろう?・・・・って呟いたんや。うちな、悔しゅうて。。。。。」
美佐子がポツリと言う。
「ええやないか、人が何と言おうが、ここを自分の住まいや思うて一生懸命に生きとる人がおるんやから。それが、わしら夫婦の宝物やないか。それで、十分や。な、そうやろ、美佐子。」
源次郎は、妻の肩に手をやって、そう元気付ける。
「そやな、今日はこれでおしまいや。また、明日から頑張らな!」
「ほんま、おつかれさん。」
源次郎と美佐子の長い一日がこうして幕を閉じた。
このあと、あの女、小暮忍から「507号室が空くのであれば是非入居させてほしい」と電話があるなどとは、夢にも思っていなかった夫婦である。
(第1話 完)