第1話 兄と妹 (その50)
ベランダに向かいながら、美佐子は自分が思っていたことが大きく外れたことを自分に恥じていた。
そっか、そんな関係もあるんだね。私が変なドラマの見過ぎなのか。
すこし、ほのぼのとした嬉しさもあったりする。
ベランダのガラス戸を閉めるとき、美佐子は念のためにと物干しを見る。
何もかかってはいない。
ガラス戸を閉めてから、和室を抜け、今度は廊下からトイレへ行く。棚の上までを見渡したが、何の変哲もない。
それから、風呂へ行く。ここにも、何もない。
風呂場の横に設置されている洗濯機。その上に乗せてある洗濯籠には、男物の下着と1枚だけバスタオルが入っている。
その脇の洗面台にも、男性用化粧品のラベルが付いた物ばかりが整然と並べられているだけである。
最後に、キッチンと繋がっている洋室へ入る。
アコーデオンカーテンで仕切られているだけのそのスペースには、壁際に大きなステレオがあって、その正面にこれまた大きな安楽椅子がおいてある。壁際には3つの本棚が並んでいて、いろいろな大きさの本がびっしりと詰まっている。
見渡しても、絵画一枚、花瓶ひとつない、飾りっけのないシンプルなものである。
念のためにと、備え付けのクローゼットを開けてみるが、そこには、一見して高級感のあるスーツやコートが洗濯屋が掛けたであろうビニールを被ったまま並んでいるだけである。
美佐子は「よし、これであれば、完全に男の一人暮らしだな」と思う。
「じゃあ、もういいかな?・・・・出ようか?」と女に声を掛ける。
女は、また、あの布団が敷いてある和室の入り口に座っていたが、美佐子の声に、
「このお布団は、このままなんですか?」と訊く。
美佐子は頷いてみせる。
「あんたには辛いかもしれないけれど、このままを見せるほうが、自然でしょ。それだけ苦しんだんだって証明にもなるし。汚れたままの布団、この部屋だけが向井さんがここで暮らしていたという証のような気がするんだよ。だから、このままで。」
女は、何か物悲しそうな顔をしていたが、「行くよ」という美佐子の声に、たったひとつにまとめられたペーパーバッグを提げて、出口に向かう。
そして、美佐子がドアのロックを内側から開けようとしたとき、
「ごめんなさい。私に開けさせて!」と叫んだ。
美佐子は、一体何事かと訝って振り返った。
だが、女の表情に強い意志を感じて、その身を譲ることにする。
「わかったよ。あんたが開けなよ。」
女は、ぺこりと頭を下げて、ドアに向かう。
内側からのロックを、ゆっくりと回す。カチャ!という音がして、ロックが解除される。
これで、ドアを押しさえすれば、外へ出られるのだが、女はなかなかそうしない。
後ろから見ている美佐子には、女が泣いているのがよく分かる。
ドアノブに手を掛けたまま、それを押そうとしない。肩が、背中が、細かく震えている。
昨夜、同じようにして、この場所に立ったのだ。それを思い出しているに違いないと思う。
そして、そのときには、今こうして自分が立っている場所に、向井が立っていたのだろう。
「振り返ったら向井がいる」
女の気持は、今、そう信じたいのかもしれない。
数分、そのままでいた。
美佐子も、何も言わなかった。
やがて、女がドアを静かに外へ押す。
女につづいて、美佐子が外へ出る。
扉は、放っておけば、自動的に閉まっていく構造である。
が、美佐子は、その閉まりかけたドアを手で停めて、
「もう、これで最後だよ。いいかい?」と女に声を掛ける。
「有難うございます」と言って、女は、再度入り口から部屋の中を見る。
そして、部屋の中に向かって、深々と頭を下げた。
「忠明さん、有難うございました、お世話になりました。。。。。さようなら。」
(つづく)