第1話 兄と妹 (その45)
「有難うございます。。。。」
女は、そう言って、深々と頭を下げる。
「そのように思ってくださる方がおられるなんて。。。」
「この寿司、旨いですよ。ひとつでも、ふたつでも、いいですから、食べなさい。そうでないと、これからの話をすることが出来ませんよ。」
女の様子を見ながら、源次郎はそのように食べることを勧める。
女は、少し考えるような仕草の後、改めて軽く頭を下げてから、ようやく外していた座布団の上にゆっくりと身体を戻す。そして、これまたゆっくりと箸を手にした。
源次郎は、少しだけほっとする。
女が吸い物を口に運ぶ。
旨いだろうなと源次郎は思う。
もちろん、ここの店主の腕がいいということもあるが、それ以上に、自分を責め続けてきたこの女にとって、少しだけではあるが、口にものが運べる精神状態になったことが、そう連想させる。
「それでね、これからのことなんですが・・・・」と源次郎が語りかける。
ようやくのことで、女がにぎりをひとつ口に入れたのを確認してからのことである。
「お電話で少しだけお話していますが、今日の夕刻には仙台から奥様とお嬢様が到着されます。病院のほうへ直行されるとの事ですが、その後、多分夜になると思いますが、お部屋にも来られるとの事です。」
女は、黙ってそれを聞いている。
その反応を見定めながら、源次郎は言葉を続ける。
「それでね。こうした時にこんな言い方をするときついかもしれませんが、先ほどお話になったように、今のお部屋にはあなたの痕跡がありますよね。奥様やお嬢様であれば、それがどのような意味を持つかを想像されると思うんです。あなたがおっしゃるとおり、それは誤解なんですよ。誤解なんですが、普通に、ごく一般的に考えると、お二人にとってはとても酷な現実に映ると思うんです。それは、ご理解いただけますよね。」
女は、テーブルの上の一点を見つめるようにして、動かない。頭の中で、仙台からやってくる二人を想像しているのか、あるいは向井の部屋に残されている自分の痕跡を確認しているのか、源次郎には分からない。
女は、ただ、こくりと頷くだけである。
「ですからね、お二人が来られるまでに、お部屋をそれなりにしておきたい、と思っているんです。悲しみにの上に、さらに追い討ちを掛けるようなことだけはしたくないし、向井さんご自身も、きっとそのように思われていると思うんです。」
女は、黙って、じっと源次郎の言うことを聞いている。
「あなたにとって、非常に辛いことを言っているということは分かっています。向井さんとの思い出が詰まっている部屋から、あなたを消せと言っているのも同じですからね。ですが、これが現実なんです。ご家族が来られる以上、向井さんをそのご家族にお返ししなくてはいけないんです。分かってもらえますよね。」
「はい、それはよく分かっているつもりです。」
女は、今度ははっきりとした口調で、そのように答える。
(つづく)