第1話 兄と妹 (その44)
女が顔を上げる。
源次郎を見る目が大きくなっている。
「本当ですか?・・・私が、深夜に引き返して来ても、お部屋を開けてはもらえなかったんですか?」
真剣な眼差しで訊いてくる。
「はい。それが常識ですよ。今だから言いますが、真夜中にその格好でお出でになって、妹だから部屋の鍵を貸せと言われても、誰が貸します?・・・・そうでしょう?・・・・身分証明をしてもらいますし、どうしてもと言われるのであれば警察を呼んでいますよ。」
「そうなんですか・・・・」
「身分証明をと言ったら、お困りになった筈。警察でも、あなたのおっしゃる理由だけで、個人宅を開けることは出来ないですしね。だから、結果は同じだったんですよ。あなたの責任じゃない。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
源次郎は、あえて、ここは冷たい判断を示す。だが、それは事実でもある。
マンションの管理をやっていると、それこそ、住人個人個人に関わるいろいろな問題に出くわす。見たくないところも見てしまうし、聞きたくなかったことまでが耳に入る。
そうしたとき、より納得性のある対応は何か、と言われれば、それは「常識」なのである。
いろいろな人が住んでいるから、いろいろな価値判断がある。それは致し方ないことだが、一旦、何らかの問題が起きたときは、それをコントロールする機能が必要なのである。
源次郎は、常に「常識」を基準して、人を納得させることに心を砕いている。
暫くすると、ようやく女の表情にも落ち着きが窺えるようになる。
目を真っ赤に腫らしてはいるが、最初のような取り乱した雰囲気は薄れてきている。
「・・・・でも、だったら、私・・・・。どうすべきだったんでしょう?どうしたらよかったのでしょう?」
「あなたは、できる限りのことをされた、私はそう思いますよ。」
「・・・でも、・・・」
「向井さんは救われたと思いますよ、あなたに。」
「・・・・どういうことですか?私の方が助けてもらったのに。」
「あなたに出会えたこと、向井さんは、本当に喜んでおられたんだと思います。昨夜だって、あなたが来られたことが具合が悪くなった原因ではないでしょう。もし、昨夜あなたがここへ来られてなくて、向井さんの体調が同じように悪くなっていたとすれば、今現在も、誰もそれに気付いていない筈でしょう?あなたが、今朝、向井さんの異変に気付かれて駆け込んで来られなかったら、向井さんは病院へ運ばれることもなく、誰にも看取られることもなく、たったひとりで逝かれた筈なんですよ。そうでしょう?」
女は、源次郎の言葉を聞いて、両耳を塞いでしまう。
今朝の、わずか数時間前の光景が、まざまざと蘇るのだろう。
「だからね、あなたは向井さんに最高の恩返しをされているんですよ。妹だとか、そうでないとかの問題ではなくて、向井さんにとって、今、もっとも身近にいてくれた家族に見守られて旅立たれた。そう思っていいのじゃないのか。私は、そう思います。」
女は、源次郎の顔を睨むように見つめる。
目からは涙が溢れ、口から洩れてくる嗚咽を手で押さえ込むようにして、睨みつける。
「本当ですか?・・・・・本当に、そう思われますか?・・・・・」
「はい。断言しても良いですよ。向井さんは、ご自分の最後の時間をあなたと共有できたことを、何よりも喜ばれていると思います。あなたの介護を受け、あなたに付き添われて病院へ運ばれ、そして、あなたに手を取られて息を引き取られた。例え、本当の家族でなくても、今、もっとも心を許せる人に見送られて旅立たれた。これほどの最後って、望んでもそうあるものではありません。」
女が崩れるように、両手を床につく。
(つづく)