第1話 兄と妹 (その43)
「私が、向井さんを見殺しにしたようなものです・・・・。昨夜、私が自分の立場というものに躊躇したために、大切な向井さんを助けられなかった。あれだけ、いろいろと助けてもらったり支えになってもらったりしたのに、私は、自分の優柔不断さから、その恩を仇で返したようなことになってしまって。悔やんでも悔やみきれないんです。」
女は、咽びながら、自分を責める。
源次郎は、今朝、この女が507号室を開けろと言ってきたときの様子を思い出していた。
確かに、切羽詰ったものがあった。悲壮感のようなものもあった。
それは、こうしたいきさつから来たものであったことを聞いて、ようやく納得できる。
だが、だからといって、この場で掛けられる言葉も出ない。
庭から、下駄の足音が聞こえてくる。
女は、慌てて、引き戸に背を向ける。今の顔を見られたくないのだろう。
当然といえば、当然である。
源次郎は、やってくる足音で、それが店主である功だと直ぐに分かる。
店主は、引き戸を開ける前に、軽く咳払いをする。気を利かせたつもりなのだ。
源次郎が、内側から、引き戸を開ける。
「ここで、貰うよ。」と、重箱のように積み上げた器を受け取る。
店主は、チラッと部屋の中の様子を伺ったが、直ぐに「じゃあ、ごゆっくり」と言って、また下駄の音を響かせて店へと戻っていった。
「寿司がきました。ともかくも、食べませんか。」と言いながら、源次郎はテーブルの上にその積み重ねられた容器を置く。
開けると、一段目には“にぎり”が、そして二段目には鱧のお吸い物と、イカそうめんが綺麗な器に入れられてあった。
奴め、女性が好むものを考えたな、と少し嬉しくなる。気が利いた品であり、取り合わせだと思う。
「朝から、何も口に入ってないのでしょう?少しだけでもいいですから、食べてください。これから、まだやらなきゃならないことが沢山あるでしょうから。」と源次郎が女に勧める。
女は、ただ首を横に振るだけである。
源次郎は、二段となっている容器を女の前において、そして自分の前にも置く。
「温かいうちに食べてください。これでも、ここの店主が心を込めて作ってくれたものですから。」といって、まずは自分から食べ始める。
そうでもしないと、女がこのまま手をつけないだろうと思ったのだ。
「ご事情は何とか理解しました。おっしゃったことは、そのまま信じます。向井さんらしいな、と今更に思いますよ。・・・・・きっと、向井さんもご家族が欲しかったんだと思います。だから、あなたは、その夢を、希望をある意味で叶えてあげたことになるんだ。そう、思います。・・・・だから、それ以上、ご自分を責めることは・・・もう、いいんじゃないかと・・・・。ねっ!」
源次郎は、最後の「ねっ!」にわざわざ力を込める。
女は、それでも首を横に振っている。自分を許せないのだろう。
「・・・でも、昨夜だったら、間に合っていたかも・・・・。」
それを聞いて、源次郎が、少し大きめの声で言う。半ば、威圧的である。
「昨夜、しかも深夜でしょう? そんな時間に来られても、私は絶対にお部屋を開けてはいませんよ。ドアをノックしたりもしませんよ。それが、常識でしょう? 返事がなくて当たり前ですよ。誰しもが寝ている時間ですからね。ですから、昨夜、あなたが来られたとしても、結果は同じだったんです。私がお部屋へ行くことを拒否してますから。」
(つづく)