第1話 兄と妹 (その4)
一階まで降りた源次郎は、真っ先に美佐子のところへ行く。
「美佐子、エライこっちゃ。」
「どうだった?向井さん、いたの?」と美佐子はのんびりと訊く。
「いたにはいたんだけど、脳・・・何とか・・でね、今、救急車呼んだんだ。」
化粧台に向かっていた美佐子が、振り向いて叫ぶ。
「あんた!ど、どうしてそれを先に言わんのよ。こんなことしてる場合じゃないわ。」
手にしていた口紅を放り投げて、すくっと立った。
「脳溢血?ぶっ倒れて怪我してるんじゃないわよね。死んでないわよね?」
「様子はどうだったの?」
「今、誰が傍にいるの?妹さんだけ?」
美佐子は矢継ぎ早に質問する。源次郎には答える暇もない。頷くか、首を横に振るだけだ。
ただ、脳溢血だったか、脳梗塞だったかがはっきりとしない。慌てていて、覚えられていない。
美佐子は長い髪を束ねながら、金庫のある方へ動き出す。髪を輪ゴムで止める。
「分かった。じゃあ、あんたは外で救急車を待って。私は、エレベーターを止めるから。」
「あっ!そうだ。お竹さんが美佐子にあがってきてくれって言ってた。」ようやく源次郎が口を挟む。
「ああ、お竹さんがいてくれてるのね。だったら安心だわ。」美佐子がしきりに頷く。
源次郎にはその意味が分からない。だが、美佐子に促されるようにして表に出て行く。今は考えている暇はない。
通りに面したマンションの玄関先には自転車が10台ぐらい置かれている。
規則では、裏の駐輪場へ入れることになっているのだが、邪魔臭いのか、ここへ置く奴がかなりいる。
日頃から、停めるところを見つけたら個別に注意するのだが、なかなか現場を押さえられない。
できれば、そうしたことを言いたくないというのが源次郎の心境なのである。
気持ちよく住んで欲しい、ただそれだけなのだ。
駐輪場まで持ってく時間はない。とりあえず、邪魔になりそうな5〜6台を通路の脇にかためて寄せる。
そうしているうちに、大通りからの角を赤色灯を付けた救急車がやってくるのが見えた。
けたたましい音である。
源次郎は、マンション前の通りに飛び出して、両手を大きく振って合図する。
呼吸が荒くなっているのを感じる。
(つづく)