第1話 兄と妹 (その37)
「失礼を承知でお聞きするんですが・・・・・」と源次郎は小声で話しかける。
女は、まだ頭を上げない。床に着いた手の上に、自らの額を乗せたまま、身動きしない。
ただ、真っ黒なバイクスーツに身を包んだその背中が、細かく震えているように思える。
「確か、小暮さんとかおっしゃいましたよね。夏の夜にお会いしたとき、向井さんがそのようにご紹介されたと思います。・・・・向井さんとのご関係をお聞かせいただけませんか?」
女は、依然として伏せたままである。
「私も、人にはいろいろな事情があるのだということは理解しています。ですから、あなたが妹さんだと今日初めて名乗られたときも、そのこと自体がおかしいなどとは思いませんでした。ただね、こんなことになってしまった以上、やはり納得のいくようにご説明いただかないと、これから先、どのように対応するべきなのかが判断できないんですよ。」
源次郎はそれだけを言って、後は暫く待つことにする。
立て続けに問い質しても、すんなり答えられるものではないことだけは、想像がつく。
暫くの間の沈黙があって、ようやく女が上体を起こしてくる。
泣いていたのだ。顔が可哀想なぐらいに崩れてしまっている。
それに気付いた源次郎が、湯飲みを持ったまま、庭のほうに視線を外す。
「どこから、お話すべきなのかも分かりませんが、忠明さんには、いえ、向井さんには公私共にお世話になっておりました。」
源次郎は、黙って聴いている。ここで、口を挟むと、女は話せなくなるだろうと思っている。
女が、ひとつひとつ、言葉を選んでいるように、また、過去の日めくりを一枚一枚手繰るように、ポツリポツリと話し始める。
出会いは、私が以前勤めておりました山王大学の付属病院に向井さんが検査入院された時です。
実は、私、そのとき、妊娠しておりまして・・・・・。
迷っていたんです。・・・・・生むべきか堕ろすべきか。
相手はその病院にいた医師でしたが、結婚できる相手ではなかったもので・・・・。
そんな時、向井さんと知りあったのです。
入院されたとき、梶井基次郎の短編集をお持ちでした。それがきっかけでした。
私も好きなんです、と言いましたら、今日明日で読み終えるからと、その短編集をお借りしたことが始まりです。
向井さんはその後検査結果も特には問題がなく、5日ほどで退院されましたが、私は、お腹の子供のことでその医師と険悪な状況になってしまい、ついには病院を辞めることにしたんです。
ひとりになって、仕事からも離れてみて、じっくり考えてみたかったんです。
でも、やはり結論が出せません。
日に日に、迷いが大きくなって、毎日、時計の振り子のように思いが揺れ動くのです。
そんなある日、なぜか、向井さんに無性に会いたくなったんです。
短編集をお返しするときのためにと、お聞きしていた携帯電話の番号に電話をしていました。
あの屈託のない笑顔に会いたかったんです。
(つづく)