第1話 兄と妹 (その36)
源次郎は、寿司屋の「魚雅」へ行くつもりだ。
丁度、マンションの真裏に位置する場所だが、お爺さんの代からやっている店で、今の店主は学校時代の後輩に当たる。気心が知れていて、多少の無理も聞いてくれるのが嬉しいところだ。
魚雅の暖簾を潜る。
今はまだ正午にはなっていないが、さすがに土曜日である。さほど大きくはない店内は、ほぼ満席の様子である。大部分が家族連れである。
「まいど!らっしゃい!」店主自らが大きな声で迎えてくれる。
彼の「いらっしゃい!」は、最初の「い」が無声音のようになって、「らっしゃい!」に聞こえる。
先輩後輩の間柄だから、ちゃんと「いらっしゃい!」と言えと叱ったことがあるが、何年経っても変わらない。相変わらずの「らっしゃい!」である。
「功ちゃん、奥の部屋空いてる?」と源次郎が訊く。
すると、「かあちゃん、奥明けたって!」と大きな声で奥さんに言う。手は、忙しそうに止まらないで、次々と寿司を握っている。
店内への給仕を仕切っている奥さんが、「あいよ!」と声を掛けて、そのまま奥へ走り込む。
「ちょい、待ったって。直ぐに開けるさかいな。なんせ、最近は孫の保育園みたいになっとるさかい。綺麗にはしとらんで。我慢してや。」
店主は、依然として手を休めることなく、それでいて、店の中の状況も、その視野に入れながら、源次郎にもそれなりの会話をする。
次々と盛り付けられた寿司桶が、若い店員の手に渡って運ばれていく。
そして、また次の注文が叫ばれる。まさに、食事時の飲食店は戦場のような緊迫感である。
奥から「空きましたんで、どうぞ・・・」という声が掛かって、源次郎は女を伴って奥へと進む。
慣れた道筋を進む。中庭のようなところを通っていくと、その奥に小さな「離れ」のような部屋がある。
引き戸をあけて、庭から直接部屋に上がる。
八畳ぐらいの和室だが、その上から深いグリーンのカーペットが敷いてある。店主が言ってたように、孫達、つまり小さな子供達が使っているようだから、彼らに汚されないための工夫だと思われた。
部屋の中央にふたつ並べられたテーブルがあって、部屋の隅に座布団が10枚ぐらい積み上げられている。
源次郎は、その座布団を2枚だけとって、手前側のテーブルのところに、対面になるように一枚ずつおく。
そして、「どうぞ」と女に声を掛ける。
バイクブーツを脱ぐのに多少手間取っていた女も、やや遅れて席に座る。
「足崩してくださいよ。」と源次郎が言う。
「はい、有難うございます。」と言った女の顔には、明らかな涙の後が見て取れる。
「失礼します」と庭から声が掛かって、若い男の子がお茶を運んできてくれる。
丁寧にふたつの湯飲みをテーブルの上においてから、彼は「ご注文は?」と訊ねてくる。
「そうだな、立込んでいるようだし、功ちゃん、いや大将に任せるって言っといてや。それと、急がへんから、とも伝えて。」と源次郎が答える。
「では、ごゆっくり」と言い残して、若い店員はゆっくりと引き戸を閉めて行く。
その気配が遠ざかってから、おもむろに女が座布団から降りて、口を開く。
「嘘までついて、ごめんなさい。申し訳ありませんでした。」
両手を床に着いて、深々と頭を下げる。
源次郎は、ただ黙ってその姿を見ている。
(つづく)