第1話 兄と妹 (その29)
「今日は、とても嬉しい日になりました。管理人さんのお陰で。」
遠くに、「夏祭り」の会場である公園の灯りが見えるとこまで来たとき、向井がポツリと言う。
「いえいえ、私も勉強になりましたよ。少し、カルチャーショックがきつかったような気もしますけれど。」
源次郎が笑顔で答える。
「また、お時間があれば、覗いてやってください。あの『ブルータス』という店で、毎週土曜日の夜、ドラム叩いてますから。」
向井は、ドラミングのマネをする。
「練習も大変でしょう?どこでされているんですか?」と源次郎が訊く。
毎日、定刻のように帰って来る向井に、そんな時間があるのだろうか、と素直に思う。あそこで、あれだけ演奏するには、それなりの練習が必要だろう。レパートリーも相当あるようだったし。
もちろん、マンションの部屋にはそれが出来るだけの防音設備もないから、自宅でやれる筈もなし。
「はい。本当は、毎日集まって練習できれば最高なんですが、皆、それぞれに仕事を持っていますからね。集まるだけでも大変なんです。演奏だけで食べているのは、リーダーの高鳥さんだけですよ。」
「ほう、マイクを持って話されていた方ですね。」
「そうです。彼は、シルバー・フォックスだけではなく、他のバンドもやっています。自宅で子供達に音楽を教えたりもしているそうです。それでも、決して楽ではないと笑っていますよ。」
「他のメンバーの方は、他にお仕事をされていて、趣味で参加されている?」
「そうです。でも、殆どは、定職ではないです。ジャズをやるために仕事をしているって言うのが本音ですね。ですから、時間が空いたときに、高鳥さんの自宅まで行って練習するんです。運がよければ、メンバーが揃いますが、ほとんどは誰かが欠けますね。」
そこまでで、源次郎は、彼らが如何にジャズの演奏に拘っているかが分かったような気がする。
「じゃあ、向井さんも、よくそのリーダーの方のご自宅行かれるのですね?」
少し考えるようにしてから、向井がそれに対して答えてくる。
「そうですね。毎朝通ってるんです。奥様にはご迷惑なんですが。」
「えっ!毎朝ですか?それから、お仕事へ?」と源次郎は素っ頓狂な声で訊きなおす。
確かに、向井が出勤していくのは源次郎がジョギングに出た直ぐ後だと美佐子が言ってたことがある。
大企業の部長さんも大変ねぇと話していた。
そうなのか、それで・・・・と源次郎は納得する。
「朝、6時半ぐらいから2時間弱ですね。練習するのは。それから、会社へ直行です。体力的にも多少キツイところもありますが、やはり好きなんですね。苦にならないです。」
向井は笑って話す。
その横を、一台のオートバイが2人を追い抜いて行った。
50メートルほど先で、そのオートバイが停まる。全身黒ずくめで、フルフェイスのヘルメットを被ったライダーが、振り返るようにしてこちらを見ている。
(つづく)