第1話 兄と妹 (その28)
「でも、もう限界です。これ以上、引張れませんよ。」と向井は言う。
源次郎は、答えようがない。
サラリーマン社会の構図も分かっている。会社が用意してくれた定年後の再就職を断ることが、どのようにキツイことなのかも理解できる。
それでいて、「やってみたいことがある」という向井の心情も、同じ男として、それなりの理解がある。
そこまで聞かされていて、さきほどの向井が言った「腹を決めている」ことがどちらの道なのかを訊くことが出来ない。
来るときよりも、より一層暗くなった夜道を、2人が歩く。
「今頃、こんなことを訊くのは可笑しいんですけれど・・・・。どうして、私を、今日あの店に誘われたのですか?」
黙っているのが苦しくなって、源次郎が尋ねる。
少しの間があってから、向井が話し出す。
「そうですね。それも遊び心と言ったら、怒りますか? ・・・実は、今日はあの「夏祭り」にちょっとだけ顔出したら、直ぐにあの店に行くつもりだったんです。」
「はい。」
「そうしたら、たまたま管理人さんとお会いしました。ちょっとお酒を飲んで、いろいろお話をさせていただきました。」
「はい。」
「そうしたら、何か、あの店での私を知っておいて欲しくなったんです。可笑しいでしょう?」
「う〜ん、でも、どうしてこの私だったんです?」
「それは、自分でも分かりません。ただ、何となく、わかってくれそうな人だと感じたのかも知れませんね。勝手に決めちゃって、申し訳なかったですが・・・。」
「それはいいんですよ。私も貴重な経験させてもらったんですから・・・。」
小さな交差点で、信号が赤になる。
向井がポケットから煙草を取り出す。
「吸いませんか?」と源次郎にも勧める。
「いえ、辞めたもんで。退職を契機に。家内がうるさくってね。」と源次郎は断る。
「そうですか、お辞めになったんですか。私と、逆ですね。」と向井が笑う。
「本社に来てから、また吸い始めたんですよ。一度は、辞めてたんですが。」と向井は旨そうに煙草を吸って、言葉を続ける。
「一日、何もないところでじっとしていると、どうしても我慢が出来なかったですね。時間が有り余っていますから、どうしても喫茶店に行く。行くと、煙草の匂いが懐かしく思うんですよ。それに、横で旨そうに吸われると、もう駄目でしたね。本社に来て、1ヶ月でまた吸っていましたよ。」
なるほど、と源次郎も思う。
在職中から、何度も美佐子から「禁煙」を求められていた。
それでも、辞められたのは、退職後である。やはり、周囲の環境が影響する。
信号が変わって、また歩き出す。
向井は、ポケットから携帯式灰皿を取り出して、その中へ煙草を放り込む。
「ところで、今日の話は、是非、管理人さんの胸だけにしまっておいてくださいね。勝手に引張っておいて、こんなことを言うのは身勝手だと思われるでしょうが。」
「分かりました。」と源次郎は、自分の胸に手を当てる。
(つづく)