第1話 兄と妹 (その27)
「でも、奥様はどのように言われてるんですか?」と源次郎は訊く。
仮に、もし仮にだ、自分がこの向井の立場だったら、美佐子はどう言うのだろうと考える。
「何、つべこべ言ってんの。男は仕事が一番でしょ。折角、会社が役員のポストをやるって言ってくれてるんだから、それはありがたく頂戴すべきよ。それだけ、あんたが会社に貢献してきたってことなんだからね。しっかりやんなさいよ。」
ってことになるんだろうな、と思う。
源次郎が退職したとき、「どっか、世話してもらえないの?」と厳しいことを言ってたのだから、そう言うに決まってるよな、と思う。
「そりゃ、当然、子会社の役員に就くだろうと思っていますよ。会社の事情は、よく知ってますからね。」
向井は、はっきりと言う。
「でも、向井さんは、ジャズがやりたいんでしょ?それって、難しいことですね。お立場もあるでしょうし。」
源次郎は、少し同情する。
折角の「安泰」を断るのは『明らかな馬鹿』との思いは確かにある。だが、こうして話を聞いていると、ましてや先ほどの店でのことを考えると、「俺でも迷うな」と源次郎は思うのである。
趣味である。確かに、「ジョージさんの趣味」なのだ。
彼は、あの店を「遊び場」だと言った。演奏しているとき、如何にも嬉しそうだった。
多分、大学を出てからは仕事一筋に打ち込んできた筈だ。若いときにも、既にその将来性を高く買われていたに違いない。そうでなければ、上司の一人娘と結婚なんかできるものではない。
その間は、彼はジャズという趣味を、ドラムを叩くという喜びを、封印し続けて来たに違いない。
そうした中、定年退職という節目を見据えたこの時期になれば、ふと「遊び心」が頭をもたげてきても、誰も非難すべきではないような気もするのだ。
「私の腹は決まっているんです。」
向井は強く言う。そして、言葉を続ける。
「大阪本社に来て5年です。でも、本当に仕事らしい仕事はしてないんですよ。ポスト待ちのポスト。社内では“春休み組”と呼ばれているんです。4月の新年度になったら、新たなところへ旅たつ奴らだと思われているんです。誰も、本格的な仕事をさせようとは思ってない。」
「う〜ん。それは、ある意味少ししんどいですよね。」
源次郎は分かる気がする。例え規模は違っても、同じサラリーマンの世界である。俗に言う「窓際」と呼ばれる人たちの存在も肌で感じるものがあった。
「何度も社長から呼ばれましたよ。どこにするんだってね。」
「・・・・・・・・・・・・」
「その都度、もう少し考えさせて欲しい。それで、逃げてきたんです。毎年。」
(つづく)