第1話 兄と妹 (その26)
今、思い出しても、身震いするぐらいだ。
そのあと、その女性から「如何にジョージさんのドラミングがすばらしいか」を切々と聞かされた。
門外漢だとは言えないで、まるで小学校の生徒のように、だだ「はいはい」と聞いていた。
しばらくして、最初の黒服の男が来て、「ジョージさんが表で待っておられるそうですから・・・」と出口まで案内してくれた。助かった。
出ると、そこには元の服装に戻ったジョージさん、いや、向井氏が爽やかな顔で待っていてくれた。
「ゴメンナサイね。席までお迎えに行くべきだったんですが、彼女がおられたもので。彼女に捕まるとそうそう帰れなくなりますからね。」と笑う。
「ファンだとかおっしゃってましたけど・・・」
「確かにね。ありがたいのですが、・・・・」と向井氏は言葉を濁す。
その帰り道である。
また、男2人が、来た道をマンションへ向かって帰る。
「私の家内はね、今の社長の一人娘なんですよ。」
突然のように向井が話し始める。
「ほう、それは凄いですね。」
「いやいや、そのお陰で、今大阪にいるのです。」
「それって、本当は・・・・ということですか?」
向井は頷きながら、言葉を続ける。
「社長は、私の為に良かれと思ってのことなのでしょうが、本当はね、私は仙台支店長で定年を迎えたかったんです。何も、大阪本社に希望はなかったんですが、やはり娘が可愛いのでしょうね。本社の部長で退職すれば、子会社の役員のポストが待っているんです。それが、我が社の決まりごとなんです。それを叶えてやるというのが、社長の意向でした。」
「でも、普通のサラリーマンからすれば、うらやましい話ですよ。どうして?向井さんは、役員に未練はなかった?」と源次郎が訊く。
「そうですねぇ。未練などはなかったですよ。それよりも、それこそ第二の人生。チャレンジしたいことがあったんです。それが、あのジャズなんです。」
向井は、そのように説明をする。
「私はまったくの門外漢で分からないですが、あの女性などは、すばらしい、プロになれる、などと言ってましたよ。」
「まあ、その言葉が相当かどうかは別にして、確かにジャズドラマーとして、やり直してみたかったのは事実ですね。だから、大阪に転勤してきてから、いろいろと探して、あのグループ、シルバー・フォックスに参加したんです。彼らは、私が参加する以前から、セミプロとして有名でしたからね。是非参加したいと、オーデションを何回も受けに行きました。4回ぐらいダメ出しされましたよ。それでも食らい就いて、5回目に、ようやくOKを貰ったんです。そりゃあ、嬉しかったですよ。」
「じゃあ、向井さんは、今でも定年退職後はジャズを本格的にしようと思われているのですか?」
源次郎には、納得が行かないのだ。大企業でそれなりのポストに就けば、定年後は関係会社への再就職が約束されているということはサラリーマンならば誰でも知っている話だ。自分のように、中小企業のレベルではそのような厚遇は期待できないから、さすがは大企業だと実感する話である。やはり大企業は違うなあと、その格差に愕然とするのだ。
その「喉から手が出る」ほどの良い話を、この向井は自らの意思で蹴るという。
サラリーマンを経験した人間からすれば、まさに「馬鹿な奴」だと言うことになる。
(つづく)