第1話 兄と妹 (その12)
美佐子が1階の管理人室に戻った。
源次郎は、机で何かを書いていた。
「あんた、あれから、向井さんの妹さんから連絡あった?」と源次郎に訊く。
源次郎は、手にしていた筆ペンを持ち上げたまま、
「いゃあ、何もないよ。まだ、それどころじゃないんだろ?」と答える。
何をしているのか?と覗いて見ると、A4サイズの紙に『自転車は駐輪場へ』と書いている。
「こうでもしないと、いつまでも玄関先におかれるだろう。」と言う。
「そんなことしても、効果あるかねぇ?」と美佐子は疑問視する。
「何もしないよりは、マシだろうよ。」
「いちいち言うのが嫌なんでしょう?」と美佐子は笑う。
図星だったようで、源次郎はまた黙々と書き続けている。何枚か同じものを作るつもりのようだ。
任せておこうと思っている。
「ところで、搬送した病院は山王付属なんだろ?あそこだったら、きっと大丈夫だよ。」
マスターキーを金庫に入れようとしている美佐子に、源次郎が言う。
「誰から聞いたの?」と美佐子が怪訝に思う。
「救急隊員が無線で話しているのを耳にしただけだけど。」と書く手を止めないで源次郎が答える。
美佐子は、源次郎の口から山王大学付属病院の名前が出ることに驚いた。
「あんた、そこって知ってるの?」
「ああ、以前、佐伯の奴が入院してたところやから。」
「佐伯って、あの佐伯さん?」
「そうや。大きな病院やで。」
「それって、いつ頃の話?」
「もう、かれこれ、7〜8年にもなるかいなぁ。」
「そんな昔?」
「あいつが会社で倒れたとき、会社の管理医がそこの出身だったから、無理を頼んで入院させたんや。駄目かも知れへんと言われたのに、あいつ、3ヵ月後には復職しよった。脳梗塞やったかな。」
源次郎が遠くを見るように話している。
「そう、そうなの。大きな病院なんだね。」と美佐子は感心する。
それは、妹だと名乗る女が指定した病院が想像していたよりも大きなものであったことと、さらには、その病院を夫である源次郎が知っていたという事実に対してである。
源次郎は、今は、こうして美佐子とともにマンションの管理人をしているが、2年前までは中堅の工作機器メーカーである「太平洋工作機」という会社の総務部次長をしていた男である。
会社でのことは殆ど話さない夫だったが、そうした部下の危機の際にも、丁寧な対応が出来ていたのだ。
定年退職後の今も、新年には必ず挨拶にやってくる佐伯という男の顔を改めて思い出す。そうした繋がりと因縁もあっての丁寧な挨拶だったのだと思う。
美佐子は、知らなかった夫の一面を、この年になって、改めて見せられたような気になる。
(つづく)