第1話 兄と妹 (その11)
「はい、私がバイトから帰ったときに擦れ違いましたから、午後11時半ぐらいだった思いますよ。お帰りになったのは。」
可奈は明確にそう答える。
このマンションの管理人業務は、一応午後の6時までと決めてある。
如何に、その1階に住んでいるからといって、24時間管理人をやるつもりもないし、やれる訳もない。
だから、現実的には、管理人が知らない来訪者があっても当然であるのだが、日頃の向井を知っているだけに、まさか夜になって女が尋ねて来るようなことは想像していなかっただけなのだ。
「そうなの、そうなのか。」と美佐子がつぶやく。
お竹さんの笑う顔が目に浮かんでくる。「あんたは、まだまだ若い・・・」と。
「じゃあ、向井のおじさんの様子が分かったら、また教えてくださいね。私、今日は大学もバイトも休みですから、一日部屋にいますし。」と言って、可奈は自室の508号室に帰っていく。
「いろいろと、厄介掛けて、有難うね。」と美佐子が礼を言う。
先ほどの雑誌を抱くように持って、可奈が一礼をして自室のドアを閉めた。
「そうか、そんなんだ。」と美佐子は繰り返しながら、507号室へ入る。
この住人はいつ戻れるか分からないのだが、取り敢えずは、現状だけは確認しておかないと、火の始末や水の出しっぱなしなどあっても困るのだ。
部屋に上がる際に、「火の気と水周りだけは確かめとかなくっちゃね。」と声に出して言う。誰もいないはずなのだが、やはり他人の住んでいる部屋である。
部屋へ上がって、和室、トイレ、バスと順に見て回ることにする。
和室には、何か異臭が残っている。嘔吐物の匂いだ。喚起ぐらいしておかねば・・・とベランダへのガラス戸を開ける。爽やかな空気が入ってくる。
和室の中央に布団が敷かれているが、掛け布団は跳ね除けられた状態で、シーツは剥がされたようになくなっている。
「そうか、ここで倒れてたんだな。」と思う。
部屋の隅においてあった掃除機を使って、散らかったものだけを掃除する。
それから、トイレ、バス、と覗いてみるが、水の出しっぱなしなどは見当たらない。
最後にキッチンを見渡す。お竹さんが言っていた「水切り籠」があって、その中には確かに夫婦茶碗が重ねるように入っていた。
男用の大き目の茶碗に少し寄りかかるように女用の小ぶりな茶碗が被さっている。
美佐子が遠くに忘れてきたような風景がそこにはあった。
最後に、ガスの元栓を締めてから、部屋を出る。
「1時間ぐらい喚起してから、改めて閉めにくればいいわよね。」と考える。
腕時計を見ると、まだ午前8時になっていなかった。
長い1日になりそうな気がする。
(つづく)