焦燥
最初は、ほんのかすかな違和感だった。
いつも行使している基本の術。呼吸より自然にできるはずのものなのに、微かな引っかかりがあった。
術そのものは成功した。それでも、胸の奥に小さなしこりが残った。初めての感覚だった。
たまたまだ。
その時はそう思った。
「……まただ」
同じ種類の違和感。
術の完成には影響しない、しかし確かに存在する微細な遅れ。
少し疲れているだけだ。
モーリスはそう自分に言い聞かせた。
だが、また同じことが起きた。
なぜだ。
もう一度。
水の流れは、意図通りに動く。
だが、違う。
水流の気配が、遠い。
かつては触れるより早くそこにあった感覚が、今は薄い膜の向こう側にあるように感じられる。
モーリスは感覚を取り戻そうと、何度も術を行使した。
だが、回数を重ねるほどに、感覚は遠のいていく。
汗が目に入り、心臓の鼓動が水の音をかき消す。
呼吸が乱れ、胸が締めつけられる。
膝が崩れ、床に手をついた。
目を閉じ、乱れる呼吸を必死に整える。
ゆっくりと目を開け、這うようにして泉を覗き込む。
そこには、白髪が以前より目立ち、頬の張りがわずかに失われた男の顔が映っていた。
目元の皺は深くなり、皮膚の陰影が年齢を隠しきれない。
五十八歳。まだ老人と呼ぶには早いはずなのに、どこか疲れが張り付いているように見える。
だが、問題は外側ではない。
魔術師としての全盛期はとうに過ぎている。
魔力の流れは細り、術式の組み立てに小さな空白が混じるようになった。
思考の切り替えが遅れ、記憶の端がふっと霞む瞬間がある。
そのひとつひとつは些細だが、積み重なるほどに、静かに、着実に彼の内側を削っていく。
自分に残された時間は、あとどれほどなのか。
ようやく兆しが見えてきたところだ。
三十年以上にわたって積み上げてきた理論はほぼ完成し、実践段階に入っている。
あとは成功させ、その再現性を証明するだけのはずだった。
だが、魔力の精度は日に日に落ちていく。
進捗は遅れ、焦りだけが胸に積もる。
自分が健在なうちに術式は完成するのか。
このまま未完成のまま朽ちていくのか。
いや。
それは許されない。
この術式が完成すれば、水流魔術は新たな段階へと進むのだ。
そして、この術式を完成させられるのは自分だけなのだ。
モーリスは地下実験室の奥へ視線を向けた。
重い鉛の扉。
その先には、長年封印してきた禁忌の術式が記された魔術書が眠っている。
モーリスは、引き寄せられるように扉の向こうへ消えていった。




