明治五年(1872年)、壬申戸籍法
私は、霞が関の庁舎で膨大な量の戸籍書類の束に目を通していた。一枚一枚の紙片には、名と、生年月日と、続柄が、几帳面なインクの文字で記されている。山田太郎、鈴木花子、などなど。
その無数の名の連なりを眺めているうちに、私はふと、この国の人間が「名」によって国家に把握されるということが決して当たり前ではなかった時代に思いを馳せる。
すべての始まりは、明治五年(一八七二年)のことであった。私がまだ五つの子供であった年に、明治政府はこの国始まって以来の画期的な布告を発した。「壬申戸籍法」。それはこの国に住むすべての民を、ひとつの統一された様式の下に登録し、把握しようとする、壮大な試みであった。
正確に言うならば、その前年の明治四年に戸籍法が制定されている。それを基に編成されたのが、「壬申戸籍法」である。
この布告が、その後の日本の形をいかに深く、そして静かに規定していったか。富国強兵や文明開化といった華々しい言葉の陰に隠れがちだが、この壬申戸籍こそが、近代国家日本の骨格そのものを形作った、最も重要な改革のひとつであったと私は確信している。
それは、単なる行政手続きの変更ではなかった。それは、我々一人ひとりの「存在の仕方」を根底から変えてしまう、静かなる革命であったのだ。
まず、この戸籍法が制定される以前、我々日本人の「名」とは一体どのようなものであったか。それを振り返る必要があるだろう。
徳川の世において、公的な「姓(苗字)」を持つことを許されていたのは、原則として武士階級だけであった。農民や町人は通常、与吉、お花といった「名(下の名前)」だけで呼ばれていた。公文書に記される際も、例えば「武蔵国多摩郡府中宿の与吉」というように、所属する村や町の名前で区別されるのが常であった。
もちろん、彼らにまったく「姓」がなかったわけではない。旧家や村役人を務める家などでは、代々受け継がれてきた屋号や私的な姓が存在した。しかし、それはあくまで内々のものであり、公に名乗ることは許されていなかった。つまり「姓」とは、身分を示す特権であったのだ。
そして、その武士たちの名もまた、我々が今考えるような固定されたものではなかった。幼名、元服してからの名(諱)、そして日常的に使われる通称。役職や立場によって、複数の名を使い分けるのが当たり前であった。
例えば、維新の三傑のひとり、西郷隆盛。
我々は、彼を「西郷隆盛」というひとつの名で記憶している。だが、彼自身が生涯を通じてその名を名乗っていたわけではない。幼名を小吉と言い、通称は吉之助、善兵衛、吉兵衛と変わった。そして「隆盛」という諱は、本来、父の名である。戸籍登録の際、届け出た者の勘違いで父の名が登録されてしまい、面倒だからそのまま使い続けた、という逸話さえ残っている。彼がその書で好んで用いた号は「南洲」であった。
西郷隆盛という一個の人格の中に、小吉、吉之助、隆盛、南洲といった、複数の名が状況に応じて使い分けられ、重層的に存在していた。このある種の「曖昧さ」や「流動性」こそが、近代以前の日本人の名の在り方、ひいては自己認識の在り方そのものであったのかもしれない。名は国家に固定された記号ではなく、その人が生きる共同体や、その時々の役割に応じて、しなやかに変化するものであったのだ。
その曖昧で、身分によって閉ざされていた「名」の世界に、壬申戸籍は巨大な楔を打ち込んだ。
明治政府が目指したのは、国民国家の創設であった。西洋列強と渡り合うためには、この国に住むすべての人間を、身分の区別なく、等しく「国民」として把握し、動員する必要があった。徴兵、徴税、そして教育。これらの近代国家の三大事業を遂行するためには、誰が、どこに、何人いるのかを、正確に把握することが絶対的な前提条件となる。
そのための究極の道具。それが、戸籍であった。
壬申戸籍法は、いくつかの革命的な原則を、この国に導入した。
第一に、『全国民の編纂』である。皇族から、かつては「えた・ひにん」と呼ばれた人々まで、この国に住むすべての人間を、ひとつの戸籍に登録することが義務付けられた。これは国民が身分上「平等」であるという四民平等の理念を、行政システムとして具現化するものであった。
第二に、『姓名の義務化』である。これまで姓を持たなかった平民も、新たに姓を創設し、届け出ることが義務付けられた。人々は慌てて、住んでいる場所の地名(田中、山本)や、職業(犬養)、あるいは由緒ありげな言葉を選んで、自らの「姓」とした。
ここに、すべての国民が「姓」と「名」を持つという、現代に続く原則が確立された。西郷隆盛の逸話のような名の「揺らぎ」は、もはや許されなくなったのだ。
第三に、『戸主を中心とする家制度の明記』である。戸籍は、個人単位ではなく、「戸」を単位として編纂された。戸主が筆頭者として記され、その下に妻、子、そして同居する親族が、戸主との続柄によって序列化されて記載された。これは江戸時代の武家の家父長制を、そのまま全国民に拡大適用するものであった。政府はこの「家」を、国家を構成する最小単位として位置づけ、戸主を通じて国民を間接的に支配しようとしたのである。
この壬申戸籍の作成作業は、困難を極めたという。突然「姓を名乗れ」と言われても、どうして良いか分からぬ人々。年齢さえ曖昧な者が多く、役人が口頭で聞き取った自己申告をそのまま登録するしかなかった。その結果、生まれたのが明治四年のはずなのに、戸籍上は明治五年生まれになっている、といった混乱も頻繁に起きたと聞く。
しかし政府は、強力にこの事業を推し進めた。それは国民一人ひとりに固定された「名」という符号を与え、国家という巨大な名簿に、恒久的に登録する作業であった。この時から我々は、村や町の共同体に所属する「与吉」や「お花」である前に、国家に登録された「山田太郎」であり「鈴木花子」であることを、否応なく義務付けられたのである。
私自身は、この壬申戸籍の、まさに申し子である。
賊軍の子である私が、学問を修め、試験に合格し、帝国の官吏として、こうして俸給を得ている。その私の存在を証明するものは、この戸籍に他ならない。それは私の身分を保証し、私という個人をこの国家の一員として公的に認めてくれる、絶対的な証明書である。
しかし、その戸籍を管理し、運用する立場になった時、私はこの制度が持つもうひとつの顔を見る。それは、国民を管理し、支配するための、冷徹で強力な道具としての顔である。
私が役所に入った頃、壬申戸籍はすでに古いものであった。明治十九年の式、そして現在の戸籍法へとその姿を変えている。だが、その基本思想は何ら変わってはいない。
徴兵検査の対象者をリストアップする時、納税を滞納している者を特定する時、あるいは危険思想を持つ要注意人物を監視する時。我々がまず頼りにするのは、この戸籍の記録である。戸籍を辿れば、その人間の出自も、家族関係も、そして過去の居住地さえも一目瞭然となる。
かつて、西郷隆盛という一個の人格の中に複数の名が豊かに共存していた、あの流動的な世界はもはやどこにもない。我々は、たったひとつの「戸籍名」に、その生涯を縛り付けられる。その名から逃れることはこの国家から逃れることを意味し、それは事実上、不可能である。
壬申戸籍は、我々に「平等」な名を与えてくれた。しかし同時に、それは我々を国家の監視下に置き、生涯逃れることのできない「管理」の網の目の中に組み込むものでもあったのだ。
大正元年の今、この国の形は、明治の初めとは比べ物にならぬほど、複雑になった。工場には、戸籍の地を離れて身ひとつで働きに来た労働者たちが溢れている。都市には、匿名性の高い、新しい大衆社会が生まれつつある。デモクラシーの思想は、人々が「家」の束縛から離れ、「個人」として生きることを煽り立てる。
こうした社会の変化の中で、戸主を中心とした「家」を単位とする、明治五年以来の戸籍制度は、少しずつ、綻びを見せ始めているのかもしれない。
国家は今なお、この戸籍という道具を使って、国民を把握しようとする。しかし、国民一人ひとりの生き方は、もはや一枚の紙に記された「名」と「続柄」だけでは、到底捉えきれないほど多様化し、流動化している。
西郷隆盛という人物が、登録者の勘違いによって、父の名を自らの名として生涯を送ったという逸話。明治の初めには、それはどこか長閑な笑い話として受け入れられたかもしれない。
だがもし、今の時代にそんなことが起きれば、行政上の重大な過誤として大問題となるだろう。なぜなら、名は、もはやその人の人格の一部である以上に、国家が個人を管理するための絶対的な「記号」となったからだ。
壬申戸籍。それは我々を旧い身分の軛から解き放ち、近代的な「個人」へと生まれ変わらせるための産湯であった。しかし同時に、それは我々を国家という巨大なシステムに組み込むための、見えざる鎖でもあった。
この先、日本人はこの「名」と、どう付き合っていくのだろうか。国家に与えられ、管理される「記号」として生きるのか。それとも、その記号の裏側にある、西郷隆盛が持っていたような、豊かで、重層的な自己を、取り戻すことができるのか。
冬の陽が差し込む静かな執務室で、私は戸籍の頁をめくりながら、そんなことをとりとめもなく考えていた。
-了-




