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明治時代と同い年  作者: 槇村 a.k.a. ゆきむらちひろ


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明治三年(1870年)、人民平均の理(四民平等)

 富国強兵、廃藩置県、文明開化など、明治という時代を形作る基礎となったものは多数ある。だがそれらを語るよりも前に、まずは「人民平均の理」に触れる必要があるだろう。それは、明治三年(一八七〇年)頃から徐々に進められた、士農工商の身分制度の解体、いわゆる「四民平等」のことである。


 この大改革なくして、その後のいかなる政策も砂上の楼閣に過ぎないと言って過言はなかろう。なぜなら、この「人民平均の理」こそが、徳川の世と明治の世を分かつ、最も深く、そして最も根源的な断絶であったからだ。それは、この国に住むすべての者の「人間としての定義」を根底から書き換える、途方もない試みであった。


 私がまだ二、三歳の頃の出来事であり、もちろん記憶にはない。しかし、その布告がもたらした衝撃の余波は、私の幼少期の空気そのものであった。そして、官吏として生きてきた私の数十年間は、この「平等」という、輝かしくも恐ろしい理念と格闘し続けた日々であった。


 大正の世となり、デモクラシーの嵐が吹く今。私はこの国の「平等」がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、改めて考えずにはいられない。


 まず、この「人民平均の理」が、旧い時代の人間にとってどれほど衝撃的であったか。それを語るには、私の父の話をせねばなるまい。


 父は、徳川の恩顧を受けた、誇り高い幕臣であった。父にとって世の中とは、生まれによって定められた身分と役割が厳格に守られることで成り立つ、ひとつの美しい階層秩序であった。武士は民を治め、国を守る。農民は米を作り、国を養う。職人は物を作り、商人はそれを流通させる。それぞれの分をわきまえ、己の役割をまっとうすることこそが、世の安寧の礎であると固く信じていた。


 その父にとって、「四民平等」の布告は、天地がひっくり返るほどの暴挙であり、世界の終わりにも等しい愚行に映ったに違いない。父が「武士と町人が、同じであるだと?」と言って、怒りに肩を震わせていたと母から聞いたことがある。


 それは、単に特権を奪われることへの怒りではなかった。それは、自らが信じてきた世界の秩序、美意識、そして存在意義そのものを、根こそぎ否定されたことへの、魂の絶叫であったのだ。


 苗字を名乗ることを許され、武士との結婚も、職業の選択も自由となる。庶民にとっては、それは長らく縛られていた身分のくびきから解き放たれる、解放の光であったかもしれない。だが父のような武士にとっては、それは自らの存在を規定していた「特権」と「責務」の両方を奪われ、ただの「平民」という、のっぺらぼうな存在に突き落とされることを意味した。


 特に、明治九年の「廃刀令」。これは、父にとって決定的な死刑宣告であった。刀は武士の魂そのものであったからだ。それを奪われることは「武士であることをやめろ」と言われるに等しかった。私は今でも覚えている。布告が出た後、父が黙って、床の間に飾ってあった大小の刀を、白い布で何度も何度も拭き、そして静かに桐の箱に納めていた、その広い背中を。あの背中には、二百六十年の武士の時代の終わりが、凝縮されていた。


 父の世代にとって、「人民平均の理」とは、秩序の破壊であり、価値の転倒であり、魂の抜かれた抜け殻にされることであった。彼らは、新しい「平等」の光の中で、どう生きていけば良いのか分からぬまま、立ち尽くすしかなかったのである。


 では、新しい時代の担い手である明治政府にとって、「人民平均の理」とは何だったのか。それは福澤諭吉先生が言うような、崇高な人権思想の実現などでは決してなかった。それは極めて現実的な、国家戦略上の必要性から生まれたものであった。


 西洋列強という巨大な脅威を前にして、この国をひとつの「近代国家」としてまとめ上げ、国力を最大化する。富国強兵。それが、新政府の至上命題であった。そのためには、旧来の身分制度は邪魔でしかなかったのだ。


 第一に、「国民皆兵」の実現。国を守るのは、もはや武士だけの役目ではない。国民すべてが兵士となる義務を負う。そのための「徴兵令」を施行するには、前提として、国民が身分上「平等」でなければならなかった。武士も農民も町人も、等しく「天皇の兵士」として、血を流すことを求められたのだ。


 第二に、「税制の統一」。安定した国家財政を築くため、全国民から等しく税を徴収する必要があった。そのための「地租改正」。これもまた、国民が「平等」な納税者であることが前提となる。


 第三に、「産業の振興」。国を豊かにするためには、身分に関係なく、才能ある者が自由に経済活動を行える環境が必要であった。商才のある農民も、工業の才覚を持つ武士も、自由にその能力を発揮できる。そのための「職業選択の自由」。


 つまり、明治政府が目指した「平等」とは、「国民を等しく国家のために動員するための平等」であった。それは封建的な身分制度という古い鎖を解き放つと同時に、「国民」という、新しく、そしてより強力な鎖で、我々すべてを縛り上げるためのものであったのだ。


 我々は、大名や藩主に仕える「領民」から、天皇陛下と大日本帝国に仕える「臣民(国民)」へと、その所属を書き換えられた。それは、より小さな共同体から、より大きな共同体へと、忠誠の対象を移し替える作業であった。そして、その巨大な共同体の中では、個々の身分の違いなど、些末な問題とされたのである。


 私自身が、まさに「人民平均の理」の申し子であった。賊軍の子である私が、学問を修め、試験に合格し、帝国の官吏となることができた。これは生まれや家柄で人生が決められない「平等」な社会が到来したからに他ならない。その意味で、私はこの改革の恩恵を誰よりも受けてきた人間である。


 しかし、官吏として、その「平等」を民に適用する立場になった時、私はその理念が持つもうひとつの顔を見ることになった。

 窓口で、困窮した農民に「規則ですから」と冷徹に納税を迫る時。徴兵を拒否しようとする若者の親に「国民の義務です」と説く時。私は、自分が、国家という巨大な機構の代理人として、民に新しい「平等」の義務を課していることを痛感せざるを得なかった。


 彼らにとって、それは本当に「解放」であったのだろうか。藩主への年貢が、政府への税金に変わっただけではないか。殿様のための戦が、お国のため、天皇のための戦に変わっただけではないか。自由や平等という美しい言葉の裏で、国家は、かつての殿様よりも遥かに強力で、そして逃れようのない力で、国民の生活を隅々まで支配しようとしていた。


 私自身が、その支配の末端を担う存在である。この自己矛盾こそが、私のような明治に生きた官吏が、生涯抱え続けねばならなかった十字架であった。我々は、父たちの世代が失った古い秩序の代わりに、新しい、より強力な秩序を、自らの手で作り上げていたのだ。


 そして、大正元年。

 この国には「人民平均の理」がもたらした、第三の波が押し寄せている。


 デモクラシーの担い手たちは、「国民は国家のためにあるのではない、国家が国民のためにあるのだ」と叫ぶ。彼らが求めるのは、国家に奉仕するための「平等」ではなく、個人の権利としての「平等」である。藩閥政府を打倒し、すべての国民に等しく参政権を与えよ、と。


 これは、明治政府が意図した「平等」の、さらにその先を行く思想である。国家が国民に与えた「平等」を、今度は国民が、国家から自らの権利を勝ち取るための武器として使おうとしているのだ。


 この動きを、私は複雑な思いで見つめている。秩序を重んじるひとりの官吏として、私はその急進性に危うさを感じる。民衆が義務を忘れ、権利ばかりを主張すれば、この国をまとめてきたたがが外れてしまうのではないか。我々が明治の四十五年間で、血と汗で築き上げてきた国家が、内側から崩壊してしまうのではないか。


 だが、旧幕臣の子として、父が味わった理不尽さを知る人間として、私は権力に対して民が声を上げることの重要性も理解できるつもりだ。国家というものが一度暴走すれば、いかに個人の尊厳を踏み躙るか。その恐ろしさを私は知っている。


 「人民平均の理」。それは、この国に、巨大な光と、そして深い影をもたらした。それは、旧い身分の鎖を解き放ち、我々に立身出世の機会を与えてくれた。しかし同時に、それは、我々を「国民」という新しい鎖で縛り上げ、国家への奉仕を義務付けた。そして今、その鎖を、今度は我々自身の力で、より人間的なものへと作り変えようとする闘争が始まっている。


 この闘争の先に、どのような社会が待っているのか。父が信じた秩序とも、私が奉仕してきた秩序とも違う、新しい「平等」の形を、息子たちの世代は見つけ出すことができるのだろうか。この「平等」という、扱いの難しい、しかし人間にとって根源的な理念。これを巡る国家としての旅は、まだまだ長く続いていくように思えてならない。



 -了-

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