明治五年(1872年)、『学問のすゝめ』
息子の机の上に置かれた一冊の書物。それは福澤諭吉先生の『学問のすゝめ』だった。私が若い頃に、それこそ擦り切れるほど読んだものと同じ本であった。息子もまた、書生仲間とこの書を手に新しい時代の議論を交わしているのであろう。四十年もの時を経て、なおこの国の若者の心を捉え続ける書物。この一冊に、明治という時代の、ある種の原点が凝縮されているように思えるのだ。
明治五年(一八七二年)。私がまだ五つの子供であった年に、この書物の初編は世に出た。もちろんその頃の私に知る由もない。だが私が物心つき、学問を志すようになった時、『学問のすゝめ』は既にこの国の隅々にまで染み渡る、空気のような存在となっていた。それは旧い時代の価値観が崩れ去った後の荒野に、新しい生き方の道標を打ち立てた革命の書であった。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」。
このあまりにも有名な一節。それは雷鳴のように、明治初期の日本人の心を撃ち抜いた。そして我々のような旧時代の敗者の側にいた人間にとっては、一条の光とも、また受け入れ難い刃ともなったのである。
『学問のすゝめ』が、どのような人々に読まれ、そしてこの国に何をもたらしたのか。
まず、この書を熱狂的に受け入れたのは、野心に燃える地方の若者たちや、商家の息子たちであっただろう。彼らは、生まれや家柄によって人生が決められてしまう封建の世に鬱屈した思いを抱えていた。そんな彼らにとって、「人の貴賤は、ただその人の学問の有無と才能によって決まる」という福澤先生の言葉は、まさに福音であった。学問を修めさえすれば、たとえ百姓や町人の子であっても、国の重要な役に就き、身を立てることができる。立身出世への扉がすべての者に開かれたのだ。彼らはこの書を懐に、希望を胸にし、東京を目指した。明治の世を動かす原動力となった、あの凄まじいエネルギーの源泉は、間違いなくここにあった。
そして、我々のような旧士族の子弟にとっても、この書は必読とされた。私の父は徳川の世に殉じた頑固な幕臣であったが、その父でさえ、私には「これからは学問の時代だ」と諭した。武士の誇りであった刀を置き、代わりに筆を持て、と。それは新しい時代を生き抜くための苦渋の選択であった。我々にとって『学問のすゝめ』を読むことは、希望であると同時に、旧い自分たちの価値観を否定し、新しい時代の論理を受け入れるための、痛みを伴う儀式でもあったのだ。武士の子が、武士の道を捨て、学問によって身を立てる。それは父の世代から見れば、一種の「転向」に他ならなかった。
さらに言えば、この書の影響は、そうしたエリート層だけにとどまらなかった。平易な言葉で書かれたこの小冊子は、驚くべき速さで庶民の間にまで広まったという。寺子屋で読み書きを習ったばかりの農民や、店の帳場に立つ丁稚小僧までもが、この書を手に取った。彼らが「独立の気力」や「一身独立して一国独立する」などという高邁な理念をどこまで理解したかは分からない。だが「学問をすれば、貧乏から抜け出せる」、「字が読めれば、役人にも騙されない」といった、極めて実利的な教えは彼らの心に深く刻み込まれた。学問が一部の特権階級の独占物ではなく、すべての国民が豊かになるための「実学」であるという考え方。これこそが、福澤先生がこの国にもたらした最大の変化であった。
それ以前の世、すなわち徳川の時代における「学問」とは何であったか。それは、武士にとっては四書五経に代表される儒学であり、為政者としての道徳や教養を身につけるためのものであった。庶民にとっては、読み書き算盤といった、生活のための最低限の技術であった。学問によって身分を変えるなど、ほとんどの者にとっては夢物語であった。
しかし『学問のすゝめ』は、そのすべてをひっくり返した。学問は、個人の尊厳を確立し(独立)、生活を豊かにし(実学)、そして国家の発展に貢献する(国益)ための、最も重要な手段であると定義し直したのだ。この価値観の転換なくして、明治の急速な近代化はあり得なかっただろう。この国は明治五年以降、身分社会から学歴社会へと、大きく舵を切ったのである。
では、そんな時代の寵児である福澤諭吉という人物は、旧幕臣の子であり、今は新政府の官吏である私の目に、どう映るのか。その評価は、極めて複雑で、一筋縄ではいかない。
まず、ひとりの人間として、その偉大さにはただただ頭が下がる。彼は幕府の使節として二度も渡米し、欧州を巡った。その目で西洋文明の神髄を見抜き、それを分かりやすい言葉で我々日本人に説いてくれた。彼の著作がなければ、我々の近代化はあと数十年は遅れていたであろう。特に私のような旧時代の敗者の子弟に、「学問」という新しい生きる道を示してくれたことへの感謝は計り知れない。彼はまさしく、明治の精神を創り上げた巨人であった。
しかし同時に、私の心の奥底には、彼に対するある種の「反発」や「違和感」が、澱のように沈んでいる。それは、私の父が象徴する旧い武士の世界から見た時の、福澤先生の姿である。
福澤先生もまた、中津藩のれっきとした武士であった。しかし彼の思想の根底にあるのは、徹底した合理主義と功利主義である。彼は、父たちが命よりも重んじた「忠義」や「名分」といった儒教的な徳目を、「虚飾」として切り捨てた。有名な「怨望の人間に害あるを説く」の一節で、彼は赤穂浪士の討ち入りさえも「私的な恨みを晴らしただけで、国益には何ら貢献しない」とばっさりと断じている。
この一節を読んだ時の、父の怒りと悲しみの入り混じった顔を、私は忘れることができない。父にとって赤穂浪士の義挙は、武士の魂の結晶そのものであった。それを「国益」という、金銭や勘定で測れるような物差しで評価するなど、考えられないことであった。父から見れば、福澤諭吉とは、武士でありながらその魂を西洋に売り渡してしまった節操のない男に映ったに違いない。
私自身も、官吏として日々「国益」を追求する立場にある。福澤先生の言う合理主義の重要性は痛いほど理解しているつもりだ。だがそれでも、人間の価値や行動のすべてを、「役に立つか、立たないか」だけで割り切ってしまうことへの、漠然とした抵抗感が私にはある。非合理で、何の得にもならずとも、守らねばならぬ義や、貫かねばならぬ筋というものが、人間にはあるのではないか。そうした、父の世代が持っていた頑迷なまでの精神の気高さが、福澤先生の明晰な論理の前では、まるで時代遅れの遺物のように扱われてしまう。私はそのことに一抹の寂しさを感じるのだ。
福澤先生は、慶應義塾を創設し、在野の精神を貫いた。我々のような政府の官吏になることを潔しとせず、常に政府の外から、その言論をもって国を導こうとした。その独立不羈の精神は尊敬に値する。しかしその一方で、我々官吏の仕事を「役人の腰ぎんちゃく」と揶揄することもあった。我々は、先生が描いた国家の設計図を、泥にまみれながら現場で実行しているという自負がある。その苦労も知らず、理想ばかりを語る在野の知識人、という反感を、心のどこかで抱いてしまうこともある。
つまり、福澤諭吉という人物は私にとって、近代日本の「光」そのものであると同時に、その光によって失われた旧い日本の「影」を否応なく意識させる存在なのである。彼は、我々が進むべき道を照らす灯台であったが、その光はあまりに強く、我々の足元にあった、不格好だが大切なものを、見えなくしてしまったのかもしれない。
大正元年の今、デモクラシーの嵐が吹き荒れている。民衆は政府に対し、多くの権利を要求し始めている。これもまた、福澤先生が蒔いた「独立」の精神が、新しい世代によって、新しい形で花開いた姿なのであろう。
だが、「天は人の上に人を造らず」という言葉の本当の重さを、今の若者たちは理解しているのだろうか。福澤先生が言ったのは、生まれながらに貴賤はない、ということであって、誰もが同じである、ということではない。その後に続くのは、「されど、学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」という、厳しい現実である。自由と独立には、それに伴う厳しい自己責任が求められる。
明治の四十五年間、我々は『学問のすゝめ』を道標に、ひたすら坂を駆け上ってきた。その結果、確かに国は豊かになり、強くなった。しかしその過程で、我々は何を得て、何を失ったのか。今、我々は、その中間決算を迫られているのかもしれない。
この一冊の書物が、これからもこの国の若者たちのバイブルであり続けるのだろう。だがその言葉を鵜呑みにするのではなく、その光と影の両面を、冷静に見つめる必要がある。福澤先生の合理主義と、父が守ろうとした非合理な精神。その両方を胸に抱えながら、この国の進むべき道を考えること。それこそが、旧幕臣の子であり、帝国官吏である私に課せられた役割なのかもしれない。
-了-




