嘉永六年(1853年)、黒船来航
嘉永六年、鎖国中である日本の江戸湾にアメリカの艦隊がやってきた。
西洋の技術たる「洋才」が、我々のそれより遥かに優れていることを見せつけられたのが、あの事件であったことは論をまたない。しかし、ペリー提督が率いた四隻の蒸気船が浦賀の海に投じたものは、単なる技術力の差への驚愕だけではなかった。それは、我々日本人が二百年以上もの間、安穏と信じ込んできた「魂」の在り方そのものに対する、巨大な鉄槌であったのだ。
私が生まれる十五年も前の出来事。だがその衝撃は、明治という時代のすべてを規定し、今なお、この国の精神の底流で低く、不気味な唸りを上げ続けている。大正の世となり、デモクラシーだの個人主義だのという、目には見えぬ新しい黒船が思想の海から押し寄せている今、すべての始まりであったあの嘉永の夏に、思いを馳せずにはいられない。
父は、あの日のことを直接見たわけではない。江戸城下に仕える一介の幕臣であった父が知ったのは、他の多くの武士や町人と同じく、噂と、そして幕府上層部の狼狽ぶりを通してであった。しかし、父が語る当時の江戸の空気は、まるで地獄の釜が開いたかのようだったという。
「天が裂け、海が燃えるかと思った」
それは父の口癖であった。噂は尾ひれをつけ、人々の口から口へと伝わる。そうするうちに、黒船は山のような大きさになり、吐き出す煙は天を覆い、積んでいる大砲は江戸の町を一日で灰燼に帰す力を持つ、と語られた。人々は右往左往し、神仏に祈り、あるいは荷物をまとめて江戸から逃げ出そうとする者もいたという。
これが、「才」への衝撃である。我々が誇る和船など、まるで玩具のように蹴散らしてしまう巨大な船体。風の力を借りずとも、煙を吐きながら海面を滑るように進む不可解な動力。そして、こちらの沿岸砲台の射程を遥かに越える場所から、正確に標的を打ち抜くという大砲の威力。それは技術の差という生易しいものではなく、文明の次元が違うという、絶対的な事実を突きつけるものであった。
「洋才」を学ばねば、この国は滅びる。佐久間象山らが早くから唱えていたその言葉が、机上の空論ではなく、喉元に突きつけられた冷たい刃であることを、誰もが悟った瞬間であった。
だが、私が真に恐ろしいと思うのは、この「才」の衝撃の、さらに奥深くにあった「魂」への一撃である。それは、我々日本人の精神を支えていた、いくつかの太い柱を、根元からへし折るものであった。
第一に、それは『「泰平の夢」の終わり』を意味した。二百数十年もの長きにわたり、この国は「鎖国」という、いわば心地よい繭の中にあった。内乱はなく、外国からの侵略もなく、時は緩やかに流れていた。我々は、それが永遠に続くかのように錯覚していたのだ。黒船は、その繭を、外から無慈悲に引き裂いた。もう眠っていることは許されない。好むと好まざるとに関わらず、我々は世界の荒波の中に引きずり出されたのだ。この強制的な覚醒は、魂の安寧を根本から奪い去るものであった。
第二に、それは『「神州不滅」という神話の崩壊』であった。我々の国の根底には、日本は神々に守られた特別な国であるという、漠然とした、しかし強固な信仰があった。元寇の際に吹いた神風のように、いざとなれば神々がこの国を守ってくださる。そう信じていた。だが、浦賀の沖に浮かぶ黒く巨大な鉄の塊を前にして、神々の加護はあまりにも無力に見えた。科学と工業力という、人間が作り出した力が、神話の力を凌駕する。この事実は、我々の精神の最も深い部分、世界観そのものを揺るがした。魂の最後の拠り所であったはずの神話が、いとも容易く色褪せてしまったのだ。
そして第三に、最も直接的な打撃は、『「幕府の権威」の失墜』であった。徳川幕府とは、この国の武の頂点であり、秩序の守護者であった。その幕府が、異国を打ち払うこともできず、なすすべもなく狼狽し、相手の恫喝の前に屈して開国を約してしまった。これまで絶対であった「公儀」の権威が、民衆の目の前で地に堕ちた瞬間であった。「夷狄を打ち払う」という、将軍としての最も基本的な責務さえ果たせない。この無力さの露呈は、父のような幕臣たちの忠誠心、すなわち「和魂」の中核を、内側から蝕んでいった。幕府が頼りにならないのなら、一体誰がこの国を守るのか。その問いが、結果として「尊皇」思想に火をつけ、朝廷の権威を相対的に高めていくことになる。黒船は、我々の魂が忠誠を捧げるべき対象そのものに、巨大な疑問符を突きつけたのである。
父が最後までこだわった「和魂」、すなわち武士の道徳や徳川の秩序は、黒船によって、その存在意義そのものを問われたのだ。旧来の「魂」のままでは、この国難は乗り切れないのではないか。その痛切な自覚こそが、黒船がもたらした最大の衝撃であった。黒船は、「洋才」の必要性を我々に教えたと同時に、守るべき「和魂」とは何か、という、この国始まって以来の根源的な問いを、我々全員に投げかけたのである。
その問いに対する答えを見出そうとする苦闘が、幕末の動乱であった。
尊皇攘夷運動とは、まさに新しい「和魂」を模索する試みであった。幕府に代わり、万世一系の天皇を精神的な支柱として戴き、国民が一丸となって異国を打ち払う。それは、揺らいでしまった魂の拠り所を、必死で再建しようとする叫びであった。
だが、薩英戦争や下関戦争で、攘夷がいかに無謀であるかを思い知らされる。西洋の「才」を前に、精神論だけではどうにもならない。ならばどうするか。答えはひとつしかなかった。一度、旧来の「魂」の象徴である幕府を打ち倒し、天皇の下にまったく新しい国家体制、すなわち新しい「魂」の器を作り、その上で西洋の「才」を全面的に取り入れるしかない。それが、御一新、すなわち明治維新の結論であった。
嘉永六年の黒船来航から、私が生まれた明治元年まで、わずか十五年。この国は、その短い期間に、二百年分の泰平の眠りから覚め、自らの魂の形を作り変えるという、荒療治を断行したのだ。その原動力のすべては、あの浦賀の沖に浮かんだ四隻の黒船がもたらした、屈辱と恐怖であった。
私が官吏として生きてきた明治の四十五年間は、いわば、黒船への「回答」を国家として実践し続けた日々であった。富国強兵、殖産興業、立憲政治の導入。そのすべては、二度とあのような屈辱を味わわないため、西洋列強と対等に渡り合うための、国民的な事業であった。我々は西洋の「才」を猛烈な勢いで吸収し、それを使いこなすための新しい「魂」、すなわち天皇への忠誠と国家への奉公という国民道徳を創り上げた。
そして、日清・日露のふたつの大戦に勝利した時、我々はついに、黒船によって与えられた宿題に、ひとつの答えを出したのだと信じた。我々はもはや一方的に脅かされる無力な国ではない。世界に伍する一等国となったのだ、と。
だが、本当にそうだろうか。
大正元年、明治の帝が去られ、新しい御代が始まった今。私は再び、あの嘉永の夏に立ち返っている。
我々の前に現れたのは、もはや砲門を積んだ鉄の船ではない。それは、「デモクラシー」、「個人主義」、「社会主義」といった、目には見えない思想の黒船である。これらの思想は、軍事力で我々を脅かすことはない。その代わり、我々が明治の時代に必死で作り上げた「国家中心」という「和魂」そのものを、内側から静かに、しかし確実に溶かそうとしている。
「国家」よりも「個人」の権利を。「公」への奉仕よりも「私」の幸福を。そうした声が日増しに大きくなっている。それは嘉永の昔、幕府の権威が揺らいだ時のように、我々が信じてきた明治の秩序、その魂の在り方を、根底から問い直す力を持っている。
黒船の衝撃から始まった我々の苦闘は、形を変えて、今なお続いているのだ。我々は。この目に見えぬ新しい黒船に、どう対峙すれば良いのか。かつてのように、国を閉ざし、攘夷を叫ぶことはできぬ。かといって、すべてを受け入れてしまえば、我々が日本人であることの精神的な支柱、すなわち「和魂」そのものが、消え失せてしまうのではないか。
嘉永六年のあの出来事は、遠い過去の歴史ではない。それは、日本という国が、否応なく世界と向き合わねばならなくなった、宿命の始まりであった。そしてその宿命は、今この瞬間も、我々の肩に重くのしかかっている。
この国はこれから先も、外から来る様々な「黒船」に揺さぶられ続けるのだろう。私はそういう漠然とした予感を抱いている。そのたびに我々は、自らの「魂」とは何かを問い直すことを迫られるのだ。その苦しい格闘から、逃れる術はない。なぜなら、それこそが、嘉永六年のあの日に、我々の国が背負い込んだ、逃れられぬ運命なのだから。
-了-




