明治元年(1868年)、御一新(明治維新)
大正元年の歳末が近づき、官庁街の空気も心なしか慌ただしい。新しい御代となって初めての新年を前に、世間は浮き足立っている。新聞は「大正維新」などという言葉を軽々に使い、新しい時代の到来を祝祭のように書き立てる。息子なども、書生仲間とハイカラなカフェーで「維新」を論じているやもしれぬ。
その言葉を聞くたび、私の胸には複雑な思いがよぎる。「御一新」。なんと輝かしく、そしてなんと血生臭い言葉であろうか。四十五年前、私が生を受けた年に始まった、この国のすべてをひっくり返した大事業。それは教科書に記されたような、輝かしい英雄譚などでは決してなかった。少なくとも、私の父のような人間にとっては。そして、その事業の末端を担うことで飯を食ってきた私にとっても、それは単純な光の物語ではない。
私は机の上に積まれた書類の向こうに、四十五年前、あの始まりの年の混沌を見ている。それは破壊と創造の嵐が吹き荒れた、巨大な坩堝であった。
亡き父は、「あれは、維新などという綺麗なものではない。薩長の連中による、ただの天下盗りだ」などと、酒が入ると吐き捨てるように言っていた。父は誇り高い徳川の幕臣であった。その父にとって「御一新」とは、主家を滅ぼされ、家を没落させられ、生涯をかけて築き上げた価値観のすべてを否定された、理不尽な破壊の記憶そのものであった。
私が生まれた慶応四年、後の明治元年。その年は、戦の匂いに満ちていた。鳥羽・伏見で幕府軍が敗れ、錦の御旗を掲げた官軍が東へ向かってくる。父が語る江戸の空気は、恐怖と怒り、そして諦念が入り混じった、重苦しいものだった。上野の山に立てこもった彰義隊が一日で壊滅した日、江戸の空は黒い煙で覆われたという。父は、それが徳川の世の葬送の煙だと感じたそうだ。
父のような旧幕臣にとって、新政府が掲げる言葉はすべて偽善に聞こえた。「王政復古」。「尊皇攘夷」。攘夷を叫んでいたはずの薩長が、いとも容易くイギリスと手を組み、その武器で幕府を倒す。その矛盾を、父は終生許すことができなかった。会津藩の悲劇を伝える瓦版を読み、唇を噛み締めながら、「武士の義とは何だ。忠とは何だ」と、父は独りごちたらしい。その問いは、新しい時代の大きなうねりの中に、虚しく溶けて消えていった。
「御一新」とは、勝者の側から見た言葉だ。敗者の側から見れば、それは内乱であり、理不尽な暴力であった。我々は「賊軍」の子となり、父たちの世代は、新しい世の中で息を潜めて生きるしかなかった。この事実を知らずして、「維新」を軽々しく口にすることなど、私には到底できない。
一方で、庶民にとって「御一新」とは何だったのか。
私が生まれる前の話になるが、慶応三年頃、「ええじゃないか」という奇妙な乱舞が、西から東へと伝わって日本中を席巻したという。世の秩序が崩れ、明日がどうなるか分からぬ不安の中で、人々は半ば狂ったように踊り続けた。それは、新しい時代への期待というよりも、むしろ旧い時代の崩壊を前にした、集団的なヒステリーであったのかもしれない。
支配者が徳川から薩長に変わる。庶民にとっては、年貢を納める先が変わるだけの話、と冷ややかに見ていた者も多かっただろう。だが、その変化の奥底に、これまでとはまったく違う何かが始まろうとしている予感を、彼らは肌で感じていたはずだ。やがて発布される「四民平等」の布告。武士という特権階級が消え、誰もが苗字を名乗り、職業を自由に選べるようになる。それは、何百年と続いてきた身分制度の軛からの解放を意味した。その変化の大きさを、当時の人々がどれほど理解していたかは分からない。しかし、「何かが変わる」という漠然とした期待が、あの混乱の時代に満ちていたことだけは確かであろう。
そして、私である。
賊軍の子として生まれた私が、今や大日本帝国の官吏として、この霞が関の庁舎で俸給を得ている。この事実こそが、「御一新」というものが持つ、最も不可解で、そして偉大な側面を物語っている。
父は私に「これからは学問の時代だ」と言った。それは、武士として生きる道を絶たれた父が、息子に託した唯一の希望であった。私は父の言葉を信じ、がむしゃらに学んだ。そして、試験によって身分を立てるという、新しい時代の階梯を登った。もし「御一新」がなければ、私は幕臣の家の次男として、兄の部屋住みで一生を終えていたかもしれぬ。私個人にとって、「御一新」は紛れもなく「機会」を与えてくれたものであった。
官吏としての私の仕事は、まさに「御一新」の理念を、具体的な形にしていく作業の連続であった。地租改正、徴兵令、学制発布。それらは全て、この国を西洋列強に伍する「近代国家」へと作り変えるための、巨大な手術であった。私は、その手術のメスを握る助手のひとりだったのだ。
地方局にいた頃、私は地租改正に反対する農民たちの陳情を受けたことがある。彼らの顔は、生活の土台を根こそぎにされることへの、切実な恐怖に歪んでいた。私は、彼らの訴えに同情しながらも、役人として「これは国家の決定です」と冷徹に言い放つしかなかった。富国強兵のため、国民国家を創るため。その大義の前では、個人の生活や、古くからの慣習は、切り捨てられてしかるべきものとされた。私は、父が味わった理不尽さを、今度は自分が国家の名において、民に強いているのではないか。その矛盾に、幾度となく内なる呵責を覚えた。
西南戦争の報を聞いた時の衝撃も忘れられない。西郷隆盛という、「御一新」の最大の功労者のひとりが、その新政府に反旗を翻した。私学校の若き士族たちを率い、かつての仲間である大久保利通や木戸孝允が作った政府と戦った。なぜ、そんな悲劇が起きたのか。それは、「御一新」が、決して一枚岩の理念ではなかったことの証左であった。西郷が見た夢は、古き良き武士の精神に根ざした国家であったのかもしれない。それは、大久保らが目指した、効率的な官僚支配による中央集権国家とは、相容れないものであったのだろう。
「御一新」とは、単一の理想に向かう行進ではなかった。それは、様々な夢や野心や理想が、互いにぶつかり合い、食い合い、そして淘汰されていく、凄まじい闘争の過程であったのだ。西郷の死によって、武士の時代は名実ともに終わりを告げ、日本は良くも悪くも、大久保が設計した官僚国家への道をひた走ることになった。そして私は、その国家機構の中で、忠実な歯車として生きることを選んだのである。
四十五年が経った今、冷静に振り返るならば、「御一新」の功罪とは何であろうか。
最大の「功」は、言うまでもなく、この日本の独立を守り抜いたことだ。アジアの国々が次々と西洋列強の植民地となる中で、日本は、この荒療治によって国力を結集し、どうにかその運命を免れた。もし、幕末の混乱が長引き、諸藩が割拠する状態が続いていれば、我々の国はとっくの昔に、どこかの国の草刈り場と化していただろう。日清・日露戦争の勝利も、その源流を辿れば、すべてはこの御一新に行き着く。我々が今、こうして国家の体面を保っていられるのは、まさしく先人たちの、時に非情ともいえる決断と実行力のおかげである。
だが、その「罪」もまた、決して小さくはない。
多くの血が流されたこと。会津の悲劇に象徴される、敗者の痛み。そして、急速な近代化がもたらした、深刻な社会の歪み。殖産興業の美名の下で公害は生まれ、都市と地方の格差は広がり、富める者と貧しき者の断絶は深まった。我々は、西洋の技術や制度を性急に取り入れるあまり、自らが古来より育んできた大切な何かを、置き忘れてきてしまったのではないか。父が最後までこだわった「武士の義」のような、効率では測れない精神的な支柱を、我々は失ってしまったのではないか。
大正元年。明治の帝が崩御され、乃木大将が殉死した今、我々は再び大きな岐路に立たされている。
「御一新」は、本当に終わったのだろうか。私は、そうは思わない。
父たちの世代が旧い建物を「破壊」し、我々の世代が新しい建物を「建設」してきた。そして今、その新しい建物の中で、息子たちの世代が「この建物の住み方は、本当にこれで良いのか」と問い始めている。大正デモクラシーのうねりは、まさにその問い掛けそのものではないか。それは、明治の四十五年間が積み残してきた課題への、新しい世代による挑戦なのだ。
そう考えると、「御一新」とは、明治元年に始まり明治四十五年に終わった過去の出来事ではない。それは、今なお続く、未完の革命なのである。
父が味わった破壊の痛み、私が担ってきた建設の矛盾、そして息子たちが叫ぶ改革の声。そのすべてを内包して、この国は動き続けている。
「御一新」。それは、偉大な創造であると同時に、悲痛な破壊であった。それは、輝かしい光であると同時に、深い影であった。そしてそれは、終わることのない、我々日本人の宿命そのものなのかもしれない。
冬の陽光が差し込む窓辺で、私は静かに目を閉じる。私の身体には、賊軍の子の血と、帝国官吏のインクの匂いが、奇妙に混じり合って流れている。それこそが、私が「御一新の子」であることの、何よりの証なのであった。
-了-




