明治元年(1868年)、五箇条の御誓文
この夏に明治の帝が崩御あそばされ、ひとつの巨大な時代が終わった。世は「大正」という新しい元号を掲げ、巷では「デモクラシー」という、私のような古い男にはどこか落ち着かぬ響きの言葉が、まるで流行り病のように囁かれている。民が主役となり、その声が政治を動かすのだという。
霞が関にある官庁で、官吏のひとりとして机の上の書類の山に目を落としながら。私はふと、四十五年前の「約束」について考えていた。それは、私が生まれた明治元年に、新しい政府が、いや、新しい日本という国が、神々と、そして民に向かって立てた、最初の約束であった。
「五箇条の御誓文」。
教科書に載る、あまりにも有名なその五つの条文。我々官吏にとっては、すべての法律や制度の源流にある、神聖不可侵の布告である。
しかし、大正の世の風潮の中でこの御誓文を改めて思う時、それは単なる歴史上の一布告ではなく、まるで生き物のように、今この瞬間にも我々に何かを問いかけているように思えてならない。特に、私の脳裏に蘇るのは、その御誓文を初めて目にしたという、亡き父の姿である。
私の父は、徳川の禄を食んだ、誇り高い幕臣であった。鳥羽・伏見での敗戦、江戸城の無血開城と、徳川の世が音を立てて崩れていくのを、なすすべもなく見ているしかなかった男だ。家は没落し、父は佩刀を置き、その魂までをも畳の裏に隠してしまったかのように、ただ黙して日々を過ごしていた。新しい世への不信と、過ぎ去った時代への断ち切れぬ未練。それが、幼い頃の家の空気を支配していた。
そんな父が、ある日の夕暮れ、一枚の粗末な瓦版か、あるいは出始めの新聞紙だったかを、食い入るように読んでいたという。母から聞いた話だ。その紙片には、慶応四年三月十四日、帝が百官を率いて天地神明に誓われたという、かの御誓文が記されていた。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
二、上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし
三、官武一途庶民に至るまで、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す
四、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし
五、知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし
父は、その第一条の文字を、指で何度もなぞっていたという。そして、深く長い息を吐き、誰に言うでもなく、こう呟いた。
「……これは、とんでもないことが始まったのかもしれん」
長じてから、私は父のこの言葉の意味を幾度となく考えた。官吏として、法や布告の条文を読み解くことを生業としてきた私は、この父の呟きに、単なる驚き以上の、複雑で、深く、そして矛盾に満ちた感情が渦巻いていたのではないかと想像するのである。
まず、そこにあったのは、旧幕臣としての「不信」であろう。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」。馬鹿を言うな。そう思ったに違いない。昨日まで「朝敵」として我らを討伐していた薩長の田舎侍どもが、本気でそんなことを考えているはずがない。これは、徳川の世を終わらせた自分たちの行いを正当化するための、美辞麗句に過ぎぬ。いずれは奴らが権力を独占し、好き放題にやるための口実だろう。父の心には、冷え冷えとした侮蔑がまず浮かんだはずだ。
だが、その不信と同時に、拭いきれない「驚愕」と「戸惑い」があったのではないか。もし、万が一にも、この言葉が本物だとしたら? 武士が、それも一部の為政者がすべてを決めていたこの国で、広く意見を求め、物事を「公の議論」で決めるという。それは、徳川二百六十年の治世どころか、日本の歴史そのものを根底から覆す、まさに天地がひっくり返るような思想であった。父が仕えた徳川の世の秩序、そのすべてを否定する言葉だ。あまりの突拍子のなさに、父は眩暈すら覚えたかもしれない。
そして、その戸惑いの奥底に、ほんの僅かな、本人さえも認めたくないような「期待」の光が射し込んではいなかったか。「官武一途庶民に至るまで、各其志を遂げ」。この一文は、父の胸を突いたはずだ。志を遂げる機会が、武士だけでなく、庶民にまで与えられるという。ならば、賊軍とされた我ら旧幕臣にも、再びこの国のために働く道が開かれるというのか? いや、そんな甘い考えは持つべきではない。だが、もし……。その微かな希望は、父の誇りが許さぬ甘美な毒のようであっただろう。
しかし、父の呟きの最も深いところにあった感情は、おそらく「恐怖」であったと思う。「公論」という、得体の知れないものに、この国の舵取りを委ねる。それは、秩序の崩壊を意味するのではないか。民草が好き勝手に意見を言い始めたら、この国はどうなるのだ。父が信じてきたのは、上に立つ者が責任を持って民を導くという、家父長的な秩序であった。その秩序が壊れ、混沌が訪れることへの本能的な恐怖。
「とんでもないこと」。父のこの一言には、不信、驚愕、戸惑い、微かな期待、そして根源的な恐怖、それらすべてが凝縮されていたと思う。それは、旧時代の人間が、まったく新しい時代の原理を前にした時の、当然の反応であった。父は、この五つの条文に、自分が信じてきた世界の終わりと、理解の及ばぬ新しい世界の始まりを、同時に読み取ったのではないか。
結局、父は新しい世に馴染めぬまま世を去った。だが、明治元年に生まれた私は、御誓文が掲げた理想の世界を、良くも悪くも生きることになった。
官吏として歩み始めた私の目に映った明治の政治は、御誓文の理想と現実が、常にせめぎ合う舞台であった。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」。その理想は、明治二十三年の帝国議会開設に繋がった。私も、初めて議会が招集された日の、東京中の祝賀ムードを覚えている。これで日本も、民の声を政治に反映させる近代国家の仲間入りを果たしたのだと、胸が熱くなった。しかし、その実態はどうであったか。議会は、政府を牛耳る薩長の藩閥政治家と、それに反発する民権派の代議士たちの、果てしない政争の場と化した。政府は、予算案を通すために裏で取引をし、時には超然内閣を組んで議会を無視した。「公論」とは名ばかりで、実質は一部の権力者の意向ですべてが決められていく。その現実に、私は何度も苦々しい思いを味わった。
「知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし」。この条文は、明治という時代の原動力そのものであった。岩倉使節団に始まり、我々日本人は貪欲に西洋の知識と技術を吸収した。殖産興業のスローガンの下、工場が建ち、鉄道が敷かれ、瞬く間に国の形を変えていった。私もまた、西洋の法律や行政制度を学び、それを日本の土壌に根付かせるための、末端の作業員であった。この条文がなければ、日清・日露のふたつの大戦に勝利し、日本が「一等国」の仲間入りを果たすことなど、到底不可能だっただろう。
しかし、その裏で「旧来の陋習を破り」という言葉は、諸刃の剣となった。古き良き伝統や、地方の共同体の絆までもが「陋習」として切り捨てられていく。効率と国益の名の下に、足尾の鉱毒に苦しむ農民の声はかき消され、開発の影で多くの人々が故郷を追われた。すべては「お国のため」という大義名分のもとに。御誓文の理想は、時に冷徹な国家の論理として、弱い立場の人々を押し潰していった。
それでも、である。
現実がいかに理想と懸け離れていようとも、「五箇条の御誓文」は、明治という国家の「建前」として、決して揺るがぬ礎であり続けた。政府がどれほど強権的に振る舞おうとも、民権派の壮士たちは「御誓文の精神に反する」と政府を攻撃する根拠を持つことができた。藩閥政府も、その攻撃をまったく無視することはできない。なぜなら、彼ら自身が掲げた、始まりの約束であったからだ。御誓文は、この国の進むべき道の、いわば北極星のような役割を果たしていたのだ。たとえ、その星に向かう船が、嵐に揺られ、蛇行を繰り返したとしても。
そして今、大正元年。
デモクラシーの担い手である若者たちは、藩閥打倒や普通選挙を叫び、再び「公論」の実現を求めている。彼らの姿は、かつて自由民権を叫んだ壮士たちの姿に重なる。彼らは、四十五年前に国家が立てた約束の、正当な後継者なのかもしれない。父が恐れた「公論」というものが、今まさに実体を持とうとしている。
ひとりの官吏として、私はその流れに不安を覚える。民衆の熱狂は、時に国を誤った方向へ導きかねない。秩序なくして国家は成り立たぬ。だが、ひとりの国民として、そして父の呟きを知る息子として、私はこの新しい時代の風に、ある種の感慨を禁じ得ないのだ。
父が「とんでもないこと」と呟いた、あの始まりの約束。その言葉に込められた不信や恐怖は、明治の藩閥政治の中で現実のものとなった部分もある。だが、その言葉に含まれていたわずかな期待の光が、四十五年の時を経て、今、大きく輝き出そうとしているのかもしれない。
五箇条の御誓文。それは明治という国家の設計図であり、我々国民への約束手形であった。明治の四十五年間は、その約束を、不器用ながらも、時には踏み躙りながらも、必死に果たそうとしてきた期間だったのではないか。そして、その約束手形の決済を、今、大正という新しい時代が迫っている。
私はこれからも、この霞が関の片隅で、国家という巨大な機械の歯車として生きていくだろう。だが、私の心の中には、常にあの明治元年の「はじまりの約束」が息づいている。父が畏れ、戸惑い、そしてほんのわずかに夢見たかもしれない、新しい日本の姿。それがどのような形で実現するのか、あるいは頓挫するのか。それをこの目で見届けること。それが、明治元年に生まれ、明治と共に生きてきた私に課せられた、務めのようにも思える。
-了-




